misreading and misleading

http://d.hatena.ne.jp/fs_gohho/20040227

■ [文章] タブー「作者が意図していない感情を書くこと」 12:24
例えば古いモノクロ映画に対して「白黒なのが静謐な空気を出していて逆に良かった」なんて感想を書いてしまうこと。それは作者の意図を読んでいることになっているのか。お前の話を聞きたいんじゃない、おれは映画の話を聞きたいんだ。

http://d.hatena.ne.jp/AYS/20040302

# fs_gohho 『こんにちは。AYSさんが違和感を覚えられたのは「作者の意図」という言い回しが、「なんだか受験国語のくだらない読解力テストみたいになってしまう」ように聞こえてしまったからでしょうか。
AYSさんのログから引きましたところの 『我々は、作品という「結果」にしかアクセスできないので、その結果について語るべきであり、「過程」に対して「断定」すべきではない』 というのには激しく同意でして、しかし同時に、ケースによっては「断定」できることもありうるのではないか。
例えば物陰から意味深な沈黙で探偵を眺める人物には、「もしかしたら犯人かも」コードという作者の意図が読みとれ、(テーマやメッセージを読み解くといったレベルではなく)そのレベルのケースでいえば、問題はないかと思うのですが。古いモノクロ映画もそのつもりの例でした。』

作者の意図を読むのはもちろん批評のトレーニングとして基本ではないかと思います。
批評というのは、表面的には見えづらい(一般大衆には見えない)モノゴトのカラクリを見抜いて、なぜそういう結果となっているのかということを論理的に解明し、それを読み手が納得できるようにプレゼンテーションする場合が多い。(のか?)
だから我々は作者のインタビューを読んだり、メイキングを見たり、「映画の撮り方」「マンガ家入門」みたいな本を読んでどのように作品が創られるのかを学習しようとします。
それを知ることで、「見抜く力」がつき、これまで見抜けないことが見抜けたり、あるいは見当ハズレの見抜きエラーを起こしづらくなります。

この「見当ハズレの見抜きエラー」ですが、見当ハズレか否かというのは批評読者の常識・経験か、あるいは報道や作者の証言・他人の見解などに影響されて判定されます。
たとえば未完成のまま劇場公開されたというアニメ『ガンドレス』とか、下書きのまま掲載される『ハンター×ハンター』を見て(どっちも私はまともに見たことないんですが)、「あれは作者の前衛的表現方法に違いなくて、時間が足りなかったとかいうことじゃない!」などと断言しちゃったりすると、「見当ハズレの見抜きエラー」ということになってしまいます。
それは「配給元からお詫びが出た」とか「他のマンガ家はやってないけど、富樫は人気作家だからな」とか「単行本で直っている」などの傍証から導き出されます。
そういう「見当ハズレの見抜きエラー」というか、トンデモ批評となるのを避けるのは重要なことです。トンデモ批評というネタとしてならいいんですが、素で誤読していると傍から思われると恥ずかしい。http://homepage3.nifty.com/hirorin/tondemotaisho2002.htm#stoneocean
筋が通っているか否かという以前に、「ほ、本気でそう思ってるんですか?」と、そもそも誇ろうとしていたはずの読解力を逆に人並み以下だと疑われてしまいます(これは辛い)。
他人が指摘してないことを言おうと気負いすぎると、三流ミステリーのありえなさすぎるトリックみたいになってしまい、「たしかに筋は通らなくもないけど、常識的に考えてそんなワケないだろ!」ということになる。この手のワナにはまってしまうので注意しましょうhttp://d.hatena.ne.jp/AYS/20030821


と、わりかし低いレベルでというか、常識の範囲内で作者の意図かどうかを判定するのはまあ普通なのです。
fs_gohhoさんの今回の言い方でひっかかった理由というのは(これも何かの受け売りな気配大ですが)、「作者が意図したか否か」をテーマとして批評を行ってしまうと、作者が一番エライことになってしまって、作者様が「それ正解」と言った批評がエラくて、「それハズレ」と言った批評が価値がないものとなってしまうという問題です。
そういうのは批評家として面白くない。というか、後者のように作者に「んなこたぁない」と言われた場合、批評家の立場がなくなっちゃうわけです。

たまに作者のインタビュー記事を証拠にそれ以前に書かれた批評を「的外れ」とか批判している奴を見ます。その場合は2パターンあって、ひとつはその批評が作者の意図だと断定しちゃってた場合。その場合、「見当ハズレの見抜きエラー」ということになってしまってどうしようもありません。
http://d.hatena.ne.jp/AYS/20040207では「作者が意図してやったかどうかは不明なのに、作者の意図が事実であるかのように書くとウソを書いたことになるのでダメ」という論調で書きましたが、また、このように「作家にそれ違う、と言われたら立場なくなる」という意味でもやっぱりダメなわけです。
じゃあどうするか。作者の意図など超越してしまえばよろしい。作中にそのような表現があるのは事実として確認できるのです。「(作者の意図はしらんけど)作品はこうなってるから、こうなのだ!」というスタンスでやればいい。
これがもうひとつのパターンです。批評が作者の意図など問題にしてない書き方の場合、「作者のインタビュー記事を証拠にそれ以前に書かれた批評を「的外れ」とか批判している奴」の方が悪い。作者がどう言い訳しようが、事実作品の中ではそうなっているんだもの、反論の余地は(あんまり)ない。
そういう書き方の方が作者の顔色など気にせずに、大風呂敷を広げることができるというもの。
もちろん、根拠や論理が批評読者にとってトンデモであれば、やっぱりトンデモとして処理されますけどね。

上で引用したfs_gohhoさんの「物陰から意味深な沈黙で探偵を眺める人物には、「もしかしたら犯人かも」コードという作者の意図」というのは、つまり露骨な伏線あるいはミスディレクションの例ですよね。
たしかに何らかの意図を持っての表現であることは明らかです。*1

「(テーマやメッセージを読み解くといったレベルではなく)そのレベルのケースでいえば、問題はないかと思うのですが」というのはたしかに。おっしゃるように、「そのレベル」というのは、それ自身は批評として低いレベルというか、瑣末なことですよね。
それがもっと大きなことを語るうえでの材料のひとつとなるならばよいが、それ自体をテーマとするのはたいていたいしたことじゃない。
とても上手く伏線を張っている作品があったとして*2、それ自体を「上手い上手い」と言ったところで、単に作者を誉めてるだけであって、上手い・面白い批評にはならないんですよね。
批評を書く場合、作者の意図を読むなどというのは当たり前というか、あえてしようとしなくてもしてしまうことです。*3

たしかに自分よりも作者の意図を見抜ける人の意見は面白い。自分は気づかなかったけど言われてみれば納得の証拠(作中表現)を教えてもらえる。
だけど、作者の意図を読むことだけを目的としてしまうと、不毛だ。
作者の意図を知りたいなら、作者のインタビューさえあれば批評家は必要なくなってしまう。その考えだと批評家は間違ったことも言ってしまう作者のデッドコピーに成り下がってしまう。
作者の意図を読もうとするだけでは、原理上、いつまでたっても作者には勝てない。
もちろん、相手と同じ作品創りという土俵では勝負できない。しかし作者すら感心してしまうような批評を書けば、いい勝負になる。批評それ自体が、批評される作品と比肩しうる作品となる。
だから作者の意図にこだわる必要などないのだ。

*1:そういえば、我々は「使われなかった伏線」などというものまで発見してしまう。伏線は後で回収されることによって伏線となるので、本来はありえないはずのものだ。しかし我々はそれが何らかの意図を持って描かれたことがわかる。そして、連載が続く中で忘却あるいは放棄されたとか、回収のシーンは初期の脚本ではあったがカットされたのではないか、などと推測するのだ。

*2:私は三度の飯より上手い伏線が好きで、「伏線」をキーワード化したのは私(どうでもいい)。

*3:たぶん我々は他人の意図を読む能力があるから社会生活を営めているわけで、自然と他人の意図を読もうとしてしまうのだろう。

MINDSEEKER

http://d.hatena.ne.jp/tragedy/20040301

顔を見たい人は色々いるわけですが、とりあえずid:fs_gohhoさんとid:ityouさんはどんな顔で生きてるのか興味津々なので、よかったら晒してくだせえ。

というわけで、今日はid:fs_gohhoさんとid:ityouさんの文章を引用してみる。どちらも、批評家として自己に表現上の禁止ルールを課している求道者。
http://d.hatena.ne.jp/fs_gohho/20040227

■ [文章] タブー「作者が意図していない感情を書くこと」 12:24
例えば古いモノクロ映画に対して「白黒なのが静謐な空気を出していて逆に良かった」なんて感想を書いてしまうこと。それは作者の意図を読んでいることになっているのか。お前の話を聞きたいんじゃない、おれは映画の話を聞きたいんだ。
■ [文章] むろん 12:24
スーパーガンバリゴールキーパーのように、作者の意図せざることが、別口の感情を引き起こすことは多々ありえる。何が意図で何が意図でないかを見分けられる目と、書き分けられる文章力が欲しいものです。

う〜〜〜〜〜〜〜〜ん。
このfs_gohhoさんの主張だが、後半の「何が意図で何が意図でないかを見分けられる目と、書き分けられる文章力」は異議なしなんだけど、前半の「それは作者の意図を読んでいることになっているのか」というのには違和感を覚える。
イイタイコトは後半なのであって、前半はたまたま目にしたダメ批評を例に出しただけなのかもしれないが。

http://d.hatena.ne.jp/ityou/20031225

作品について書いたり喋ったりする際、話が、製作者の努力や思量を評価する方向に転がっていってしまうことが、しばしばあります。これは避けたほうがよいです。

このityouさんの主張、実は力点は例によって「評価する」ことの是非であって、「作者の努力や思量」を読もうということの是非じゃないのだが、fs_gohhoさんの意見と反対のことを書いているように見えるので強引に引用してみた。

批評的な目で見ると、どうしても無意識に作者の意図を読んでしまうが*1、結局のところ制作者がそのとき何を考えていたかなど憶測することしかできず(インタビューでの作者の証言は必ずしも信用できないし、本人だってそもそも覚えてない)、作者の意図を正しく読むというのを批評の動機や目的にしてしまうと、なんだか受験国語のくだらない読解力テストみたいになってしまうのではなかろうか。
作者の信者が教祖に少しでも近づきたいという動機ならともかく。(あるいは作者の意図が自分の主義主張と同じだと強引に論じてしまうパターンhttp://d.hatena.ne.jp/AYS/20040205 http://d.hatena.ne.jp/AYS/20040207

ごく稀に何らかの作品の作者の人に質問できる機会に恵まれるが、いつも質問しづらいのは、「俺はアンタの作品を見て、アンタの意図をこうだと推測したんだけど、これあってるよね??」みたいな答え合わせを目的とした質問大会になりはしないか、ということなのだ。
で、たいていは(いろいろ熱く語りたいことはあったとしても)無難な感想を言って相手の反応を見て、あわよくば相手が勝手にしゃべりたいことをしゃべってくれないか期待する、というふうになりがちで、インタビュースキルのなさに鬱々とするわけだが。

前にも何回か言ったり書いたりした記憶があるが、批評的な文章を書いていて一番気持ちいいときは(読者の方が誉めてくれたときを別にすれば)、「ひょっとしてこれ気づいて指摘したの世界で自分だけかも!? というかむしろ作者自身もたぶん気づいてないんじゃなかろうか!?」(と錯覚する)という瞬間だ。
それをもし作者氏が聞いたなら、「いや、そこまで考えて作ったわけじゃないよ」と正直に謙遜するか、「いやぁ、よくわかったねぇ…」と(いや、そこまで考えて作ったわけじゃないんだけど)と内心では思いつつ曖昧に同意するしかないような、作者の顕在意識を超越し、なおかつ作品を客観的に見たときに理屈としてちゃんと筋が通っている指摘。
そういう指摘を、私はしたい。

たぶん宮本茂は特に深い考えを持って『スーパーマリオブラザーズ』のゴール地点に金の斧を置いたわけではない、と私は想像する。
だが宮本茂が当時どう考えていたかなどということは、ここではどうでもいいのだ。『スーパーマリオ』という作品が事実そうなっていて、それが『スーパーマリオ』のゲームデザインの素晴らしさを語るための端的な例となっていること。そのことに私は感動を覚えるのである。

*1:そもそも我々の世代はビデオゲームをプレイする=制作者の意図を読んで攻略法を発見しなければならないという訓練を無意識に積んでいるのでそうなりがちなのかもしれない

To tell the truth

引き続き中澤英雄(東京大学教授・ドイツ文学)の「アメリカの贖罪と救済―『ラスト・サムライ』の中の「インディアン」」http://www.yorozubp.com/0401/040108.htmについて。

5日のid:ityouさんのコメントより。http://d.hatena.ne.jp/AYS/20040205

# ityou 『◆「正反対」ではない。日本ってどこだっけ?とか言ってる多数の観客に及ぼす効果と、深読みしまくる人に及ぼす効果とでは違うから。
◆面白ければ嘘八百で良い。真実で面白ければそれもそれで良いが嘘だっていい。

私は、「面白ければ嘘八百で良い」とまでは思わない。嘘であることが明らでそれが愉快であるか、あるいは嘘であることを気づかせないぐらい面白ければ別だが。

中澤氏の語り口で気になるのは、メッセージとか、描いている、という言葉づかい。作者がこう語っている、と強気で言うよりも、こう読み取れる、という弱気な語り口のほうが僕は好きだ。』 (2004/02/10 01:11)

その辺が気になるのは同じだが、語り口自体に関しては私の考え方はやや違うかな。
ハッタリをかますのは悪くないと思う。「たぶん〜だと思う」程度を「違いない」と断定してしまう方が好ましい場合が多い。その方が文章に力が込められ、読んでて気持ちいい。
中澤氏の「この場面に込められたメッセージは明瞭である」なんていうフレーズ、後述の態度としてはやや問題ありだが、ハッタリっぷり自体は悪くない。弱気より強気だ。
ただ、ityouさんが書くように(以下冒頭URLの中澤氏の文章より引用)、

さらにこの映画は、九一一事件以降、「テロとの戦い」に邁進する現在のアメリカの動きも間接的に批判している。
(……)
安易に「日米同盟」(武器契約)に走るのではなく、日本が日本の「スピリット」を発揮することこそ、アメリカへの真の援助となるのである、とこのアメリカ映画は語っている。

などと、客観的事実であるかのように書くのは微妙だ。あくまで自分の「見方」「解釈」としての断定、というニュアンスならいいのだが、この人の場合は(内容を考えるとこの人独自の見方でしかありえないが)ニュアンスとしては本当に映画制作者がそういう意図で作ったという事実があるかのように読めてしまう。
(たとえばインタビュー記事である程度裏を取ってるとか。インタビューでの発言の引用は見栄や受け狙いやプロパガンダのための偽証とかもあるので、話のタネとしてはともかく論の根拠とするのはいろいろ問題があるが)

「たぶん〜だと思う」を「〜に違いない」と言い換えてかまわない。
たとえば作者が本当にそう考えて作ったかどうかは疑わしくても、論じようとすることが真実である(真実となりえる)という確信があるなら断定的に論じてもよい。
ただし、「作者はそう考えたのだ」的な憶測なのに事実であるかのような書き方はよくない。「作者は(結果として)そういうものを作ったのだ」的な事実の断定ならOK。
例を挙げると、
http://www.intara.net/og/portpia2.shtml

犯人が判明し、普通に逮捕して終わりというのではなく、最後の最後でコマンド(命令)というゲームシステムを最大限に利用した仕掛けで「ポートピア」を締めくくった堀井雄二
彼は間違いなく、天才である。

は(手前味噌だが)問題ないと思う。「最後の最後でコマンド(命令)というゲームシステムを最大限に利用した仕掛け」があるのは事実として確認できる。
また、「仕掛けで「ポートピア」を締めくくった堀井雄二。」は、別に意図してやったとは書いてない。無意識あるいは偶然そうなったかもしれない。だが、結果としてそうなったのは事実だ。しかし、

犯人が判明し、普通に逮捕して終わりというのではなく、最後の最後でコマンド(命令)というゲームシステムを最大限に利用した仕掛けを堀井雄二は作ろうとしたわけだ。そしてその結果思いついたのがこの仕掛けである。そうして「ポートピア」を締めくくることができた堀井雄二は間違いなく、天才である。

だと、そのような明確な意図や試行錯誤が事実としてあったという意味になってしまう。
別に堀井さんに直接聞いたわけじゃないし、そういう事実は確認されてないのであまりよくない、ということだ。
我々は、作品という「結果」にしかアクセスできないので、その結果について語るべきであり、「過程」に対して「断定」すべきではない。(「憶測」はかまわないが、論としてのパワーは落ちてしまうのであまり推奨できない)
しばしば作品を論評するときに作者について言及することをタブー視するむきがあるが、この辺の事情も関係があるのだろうか?

憶測を事実であるかのように書いてしまうのは、読者に対して(あるいは作者に対しても)誠実ではないと思う。

そういえば、関連した話は前に書いたので(コメント部分は検索にひっかからないので探すのにちょっと苦労した)、ついでにひろっておく。
http://d.hatena.ne.jp/AYS/20030825

# AYS 『私も「地に足がついた批評/評論」という表現をたまに使うのですが、私の場合はちょっと意味合いが違ってて、それはそれなりの根拠があってさらに論者がそれが真理だと確信しているか、真理になりうると確信しているもの、という感じです(いろいろツッコまれそうな言い方ですが)』
# AYS 『言い換えれば、批評する対象と、批評する自分に対して誠実であるかどうかです。』
# AYS 『ゲームのことをろくにしらないのに論じてる人は対象に対して誠実ではないと思うし、読みかじっただけの他人の学説を自己で消化しないままあてはめるのは、自分に対して誠実ではない。』
# AYS 『知らないうえでの発言だが、と前置きするならともかく。』
# AYS 『論文だとそうはいきませんが。批評でも、かな。ただ、その場合はそのウィークポイントは批判されてしかるべきでしょう』

つまり、知らないのに知ったかぶってしまうのは対象に対して誠実でないのでよくない。
自分の説が真実である(可能性がある)と確信を持てないのにハッタリをかますのは自分に対して誠実ではない。
断定するのはいい。だがそれが真実だと確信できるという覚悟を持て。

話がズレた。冒頭の話に戻ると、中澤氏は最初から自衛隊イラク派遣問題とかに関する自分の考えを主張したくて、たまたま見た映画を引き合いに出してそれを語っただけにすぎない。その意味では、本来映画評として読むべきではない。
ただ、一見映画評のように見えてしまうので、映画評として解釈すると、自分の信条が対象に投影されすぎてて、制作者の意図にまで自分の信条を投影してそれが事実であるかのような書きっぷりなのがイクナイ。以上。

侍道2

http://d.hatena.ne.jp/AYS/20040201で『ラストサムライ』の感想を書いたら、id:cruyffさんから「ラストサムライは本当はラストインディアンなのですた」ということで、次の評を紹介していただいた。
ちなみに映画のネタバレ全開ですので。

http://www.yorozubp.com/0401/040108.htm

アメリカの贖罪と救済―
ラスト・サムライ』の中の「インディアン」
2004年01月08日(木)
中澤英雄(東京大学教授・ドイツ文学)

(……)
 ケビン・コスナー監督・主演の『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(一九九〇)は、このような世界的な先住民族復権の機運の中で作られた、それまでの西部劇とは一線を画するインディアン映画であった。この映画の中では、インディアンはもはや絶滅されるべき野蛮人ではなく、白人とは違った独自の文化を持つ対等な人間として描かれる。古い西部劇の「文明対野蛮」という図式は、「異文化の交流」という図式に代わった。
 『ダンス』の主人公のジョン・ダンバーは、オールグレンと同じく南北戦争に参加した軍人である。物語の時期も同じ南北戦争後。両作の背景は似ている。私には、『ラスト・サムライ』は日本を舞台にしたインディアン映画に見えた。この映画のいくつかの「奇妙さ」は、これを擬装されたインディアン映画と見なすことによって腑に落ちるものとなる。勝元の村はインディアン部落に似ている。勝元軍と官軍の戦闘場面は、まさにインディアンと騎兵隊の戦闘である。剣と弓矢しか持たない勝元軍は、新式銃で武装した官軍に、まさにインディアンのように殲滅される。しかし、それはもはや「文明対野蛮」の戦いとしては描かれない。

なるほどなぁ。『ラストサムライ』と『ダンス・ウィズ・ウルブズ』の関係についての指摘は大いに頷ける。前半までのこの指摘は卓見だ。だが後半アレレな感じになってしまう。

オールグレンのインディアンに対する心情は、ジョン・ダンバーよりもさらに先を行っている。彼には、自分が犯した罪への罪悪感と、自分にそのような罪を犯させたアメリカ白人文化への嫌悪感がある。

というのはやや言い過ぎの気がするけど。白人文化自体が嫌いというより、南北戦争で自分がしたことへの悔恨とそれを命令した上官への恨みとかその程度の描き方だったように思える。それで彼はアル中になり、その贖罪の機会を待っている(それがなぜか勝元といっしょに玉砕する、というのが答えになってしまうのだが)。
彼は自らがアメリカ軍人・アメリカ人・白人であること自体を少しも嫌悪していないのだ。
いや、そこからそういうテーマを見出そうとするのはアリなんだろうけど、そう見ようとしているからそう見えるだけなんじゃないだろうか。
こうバイアスかかりまくりの見方なので、論は次のように展開される(もしくは、後の結論を導くために意図的にバイアスをかけている)。

 さらにこの映画は、九一一事件以降、「テロとの戦い」に邁進する現在のアメリカの動きも間接的に批判している。
 冒頭にも述べたように、オールグレンが日本に派遣されたのは、武器会社が明治政府に武器を売り込むためであった。近代化に熱心な明治政府はフランス、ドイツ、オランダなどヨーロッパ諸国からは法制、建築、技術などを導入しようとしているが、アメリカから導入するのは武器だけである。これは、軍事国家アメリカ(現在のアメリカ)へのアイロニーに満ちた自己批判である。

この辺はid:ityou氏の予告を見てのこの映画の判断http://d.hatena.ne.jp/ityou/20040130のと正反対な見方だな。
ともかく、私は『ラストサムライ』はいわゆるアメリカの正義への反戦映画ではないと思う。

 映画の最後の場面では、若き明治天皇は、大村の補佐を受け、アメリカの武器会社と契約を結ぼうとしている。そこに、生き残ったオールグレンが勝元の形見の剣を持って入ってくる。天皇は勝元の刀(武士の魂)を受け取り、武器取引で私腹を肥やそうとしている大村を解任し、アメリカの会社との武器契約を取り消す。武器商人は憤然として御前から退出する。
 この場面に込められたメッセージは明瞭である。たしかに勝元は死に、「サムライ」の時代は過ぎ去った。しかし、「サムライ」の魂=武士道は、物質的には近代化=欧米化の道を歩まねばならない日本にも継承されねばならない。ただし、近代の武士道とは、決して単なる軍国精神であってはならない。日本はアメリカの軍国主義に盲従するのではなく、自国の伝統と精神性を大切にし、勇気をもって自主独立を貫いてほしい、と映画は語っている。なぜか? 武器しか輸出できないアメリカには、もはや「スピリット」が存在しないからである。もし日本までもがアメリカの言いなりになってその高貴な精神性を失ったら、インディアン虐殺(その背後には広島・長崎やベトナム戦争、さらにはイラク戦争までもがかいま見える)という大罪を犯したアメリカが、贖罪し救済される可能性はなくなる。安易に「日米同盟」(武器契約)に走るのではなく、日本が日本の「スピリット」を発揮することこそ、アメリカへの真の援助となるのである、とこのアメリカ映画は語っている。

え〜っ!? たとえばイラク自衛隊を送っちゃいけないとか、日本政府の対応を、この映画の作者氏は映画を通じてアドバイスしてくれてるんですかっ!? そんな。
明治天皇が最終的にアメリカ政府の申し出を蹴って勝元(渡辺謙)の遺志に共感を示した、というオチは、西洋近代文明よりサムライ魂の方が価値がありますよ、という表現でしかなく、単なるアメリカ人のオリエンタリズムというか、サムライニンジャの国への憧れでしかないと思った。
オールグレン(トム・クルーズ)はアメリカ政府が嫌いだったわけではない。先述したように、単に自分が過去にやったこととそれを命令した上官が嫌いであり、そういうトラウマを救済してくれそうなカッコよさげな思想を持ってるサムライとたまたま出会って感化されたにすぎない。
彼が最後に明治天皇にその選択を望んだのは日米政府それぞれのありかたを憂えたのではなくて、単に自分が好きだった勝元は正しくて、自分が嫌いだった上官が間違ってる、という個人的感情からである。そこに大局的な視点は、ない。
そもそも、映画は玉砕を諸手をあげて美化しているのだ。バカボムこと神風特別攻撃隊バンザイなわけだ。筆者はこの重要な点を意図的に無視しているように思える。
映画のメッセージは、「東洋的な思想はなんかカッコよさげ」であり、せいぜい「みんな、物質文明に浸ってばかりいないで、精神というものをもっと評価しようぜ」程度でしかない。
ここでの筆者は、自分の思想を人気映画に投影し、 それを援用して(無意識に?)自分の思想を広めようと我田引水しているだけにすぎないと思う。

→続きhttp://d.hatena.ne.jp/AYS/20040207

実作者と批評

夏目さんが、批評について書いている。

「うまいヘタ問題」   夏目房之介
http://www.comicpark.net/natsume030822.asp

 8月最後の週に、4夜連続(一夜は公開録画)で、例によって「BSマンガ夜話」がある。年4回とはいえ、すでに7年目。こうなると、それなりに「社会的影響力」があると考えざるをえないだろう(笑)。
……
 もうひとつ、それ自体は「よくあること」に見えながら、緻密に追いかけていくと、とんでもなく厄介な問題もある。
 いしかわじゅん氏の「発言」(と、多くの視聴者に受け取られている)から、しばしばひきおこされる「うまいかヘタか」問題である。

 いしかわ氏自身がマンガ家=作家としての自意識で発言しているので、番組の初期にはある種独特なインパクトがあり、大月隆寛氏や岡田氏によって「いしかわ番付」という枠組みを与えられ、あたかも行司(裁定者)のようにいしかわ氏を扱うネタとして、番組の「売り」のようにして成り立った。
 それが「うまいヘタ」問題である。
 出演者同士は、それをある種メディア上の「遊び」と意識しているからいいが、もちろんそれを「まとも」にとる視聴者もいるわけで、キャラ的に「辛口」イメージを引き受けるいしかわ氏は、業界一部から嫌われ者になったりもしている(少なくとも僕の見聞の限りでは)。

 よくいわれるのが「いしかわじゅんの絵を見たら、よくあんな偉そうなこといえると思う。自分で描いてみろといいたい」という(おもに作家やファンからの)感情的反発だが、これはじつはたいした問題ではない。
 描けない者が「うまいヘタ」や、それに類する判断をしてはいけない、ということになると、批評も研究も、そもそも鑑賞自体が成り立たなくなるからだ。
 絵を描けない人は絵画批評ができず、音楽を演奏できない人は音楽批評ができない。小説を書けない人が文芸批評をしてはいけないことになる。そんな社会は、ロクなもんじゃないのである。

そうなのである。だからゲームを作ったこともないような奴がゲームをけなしても何も悪くない。

ただ、いしかわじゅん氏の場合は、あくまで「マンガ家の俺から見るとこうだ」って言っている側面があり、マンガ家としての発言(たとえば後輩を先輩風吹かせて批評したりする)なので、その場合は「じゃあお前はどうなんだ」と批判されてもある程度しかたがない部分はあるのではないだろうか。
(批判されてもしかたがないといっているだけで、いしかわはこういう発言をすべきでない、という意味ではない。)

とはいえ、夏目さんは元々マンガ家で、有名マンガの模写・パロディを通してその表現批評を完成させたという経緯がある。
初期のゲーム評論で主役的な立場を演じた田尻智も、インベーダーやパックマンなどの有名ゲームを自分のパソコンで再現しようとしたところから出発しているので、同じである。
実作者の方が気づきやすい部分は多いだろうし、実作者にしか気づけない部分もあるのだろう。

実作できない私には無理な部分である。(いまのところプログラミングの勉強する気もないし)
実作者の方から、実作者にしか書けないすぐれたゲーム評論を書く人が出てきてほしいものだ。
そういえば、初期の『ゲーム批評』にはプロフィールにゲーム制作者と書いてあった人がけっこういたと思うのだが、いいことを書いていたという記憶がない。あったのかもしれないけど。

追記。tragedyさんも前にこの問題について書いていて、この夏目さんのコラムを紹介したら日記でとりあげてくださいました。
http://d.hatena.ne.jp/tragedy/20030826

神は最後に宿る

個人ページによく「俺のゲーム批評」みたいなコーナーがあって、読むと「グラフィックはよい。操作性はイマイチ。8点」みたいなことが書いてあるんだけど。
こういうのを「批評」と呼んでも悪くはないとは思うんだけど、あまり読みたいとは思わない。
ただ、自己紹介の一部としてなら大いに存在意義がある。
「『セプテントリオン』大好き。特にバイオリンで説得するシーンとか、「やはり神はいたんだ!」と叫ぶ殺人鬼とかのシーンとか、プレイヤーキャラが医者で、妻が途中で死んでしまったバージョンのエンディングがイイ!」とか書いてあると、ぜひお友達になりたいと私は思うし、
私が高く評価するゲームを、同じように高く評価している人を見かけたら、その人は自分と感性が近いから、その人が私はまだやったことのないゲームを高く評価していたら、やってみたいと思うだろう。

エロゲカウントダウンの作り方
http://www.ne.jp/asahi/pero/ecd/howto.htm
情報源:http://www3.azaq.net/bbs/300/dakini/http://artifact-jp.com/

レビューを書くときに一番重要なものは何か。
それは当然、自分自身であります。

先に例として書いたバイヤーズガイド的なレビュー、ああいうのはデータであって、レビューじゃない。実際、それが読まれる時、読者はデータを見ているのであって、レビュワーを見てない。一生懸命レビューを書いたのに、これでは寂しい。注目されたいからサイトやってるっちゅうに!

データの羅列のレビューから抜け出す鍵は、レビュワーによる切り口。オレはここがスキだ!オレはこれはキライだ!という、指摘ではなく主張。「文章を通じてゲームを描く」のはガイド。「文章を通じて自分を描く」のがレビュー。評論系ならともかく、感想レビューにはとにかく本人の指向性のフィルターが要る。レビューを書くということは、「自分はどういう人間であるのか」ということを晒すことに他ならない。

私は「GΛΜΙΛΝ」では、他人が主張してなさそうで、しかも読んだ他人を納得させる文章をできれば書きたいと思う。
しかも、自分の好き嫌いはなるべく押し込めて、「指摘」のみをすることによって「主張」しようとしている。
「私」という一人称をすぐに書きたくなるのだが、なるべく使わないようにしている。

だから、といっていいのか、いいネタがないとこの形式では文章は書けない。
『超クソゲー』みたいな芸風なら、どんなたぶんゲームでも書ける。難しいところだ。

そして、レビューを書くにあたって、次に重要なこと。
それは、ゲームの本質を見極めること。

ゲームをやり終えて、パっと浮かぶ印象でもいいし、オープニングのある場面でもいい。何か一つ、「このゲームは●●だ!」というものを見つけることが肝要。レビューというものは、一つの読み物になっているのが理想。となると、何か一つ、レビューを読み進む上での大きな手がかりは絶対必要になる。

ここで重要なのは、その「本質」が全くの見当違いであってもいいってこと。それが「本質だ!」と言い切れるだけの自信と熱意があれば、それで十分。

「見当違いであってもいい」なんて言い切れないが、こういう「一事が万事」的な強引な言い方は私がよく使うところである。
実際はそうでもなかったりするんだけど、文章としての説得力を持たせる上では必要なことだ。

クッパはなぜ溶岩の海に落ちて行くのか」
http://www.intara.net/og/smb.shtml
で私が言いたかったことは、実は

スーパーマリオブラザーズ』というのは、究極的には「右に進む」だけのゲームなのだ。

という一文なのだ。(こういうシンプルなゲームデザイン手法は大切だという話)

だが、

ゲーム中、土管から地下や海に潜ったり、雲の上に行ったりなど、マリオは上下にも移動するが、出口は常に右にある。
正しいルートを通らねば抜けられない迷路もあるが、選ぶ道は上下であり、常に進む方向は右である。

つまり、『スーパーマリオブラザーズ』というのは、究極的には「右に進む」だけのゲームなのだ。

だけだと、いまいちインパクトがない。
( ´_ゝ`)フーン で終わってしまうのだ。
で、いっしょうけんめい考えて、

右に進むことによって進行するゲームである『スーパーマリオブラザーズ』は、頑ななまでにそのルールを遵守した。
そう、ゲームを終える方法さえも、潔く「右に進む」ことにしたのだ。
だからクッパは溶岩の海にかかるつり橋の上にいなければならないし、一番右にはその橋を落とすための斧がなければならないのである。
すべては一番右に進んだマリオがゲームを終えることができるように。

というネタを探し出してきて指摘するのである。そうでないとオチにならない。これでやっと「70へぇ」ぐらいになりそうな感じ。
(「ポートピア」の最後のコマンドもそうだけど、ゲームの最後とか最初とかの要所にはネタが潜んでいる可能性がけっこう高い)

というわけで、こういうのはしんどいので、この日記はオチとか伏線とかを考えないで、今日もダラダラと書いているわけである。