To tell the truth

引き続き中澤英雄(東京大学教授・ドイツ文学)の「アメリカの贖罪と救済―『ラスト・サムライ』の中の「インディアン」」http://www.yorozubp.com/0401/040108.htmについて。

5日のid:ityouさんのコメントより。http://d.hatena.ne.jp/AYS/20040205

# ityou 『◆「正反対」ではない。日本ってどこだっけ?とか言ってる多数の観客に及ぼす効果と、深読みしまくる人に及ぼす効果とでは違うから。
◆面白ければ嘘八百で良い。真実で面白ければそれもそれで良いが嘘だっていい。

私は、「面白ければ嘘八百で良い」とまでは思わない。嘘であることが明らでそれが愉快であるか、あるいは嘘であることを気づかせないぐらい面白ければ別だが。

中澤氏の語り口で気になるのは、メッセージとか、描いている、という言葉づかい。作者がこう語っている、と強気で言うよりも、こう読み取れる、という弱気な語り口のほうが僕は好きだ。』 (2004/02/10 01:11)

その辺が気になるのは同じだが、語り口自体に関しては私の考え方はやや違うかな。
ハッタリをかますのは悪くないと思う。「たぶん〜だと思う」程度を「違いない」と断定してしまう方が好ましい場合が多い。その方が文章に力が込められ、読んでて気持ちいい。
中澤氏の「この場面に込められたメッセージは明瞭である」なんていうフレーズ、後述の態度としてはやや問題ありだが、ハッタリっぷり自体は悪くない。弱気より強気だ。
ただ、ityouさんが書くように(以下冒頭URLの中澤氏の文章より引用)、

さらにこの映画は、九一一事件以降、「テロとの戦い」に邁進する現在のアメリカの動きも間接的に批判している。
(……)
安易に「日米同盟」(武器契約)に走るのではなく、日本が日本の「スピリット」を発揮することこそ、アメリカへの真の援助となるのである、とこのアメリカ映画は語っている。

などと、客観的事実であるかのように書くのは微妙だ。あくまで自分の「見方」「解釈」としての断定、というニュアンスならいいのだが、この人の場合は(内容を考えるとこの人独自の見方でしかありえないが)ニュアンスとしては本当に映画制作者がそういう意図で作ったという事実があるかのように読めてしまう。
(たとえばインタビュー記事である程度裏を取ってるとか。インタビューでの発言の引用は見栄や受け狙いやプロパガンダのための偽証とかもあるので、話のタネとしてはともかく論の根拠とするのはいろいろ問題があるが)

「たぶん〜だと思う」を「〜に違いない」と言い換えてかまわない。
たとえば作者が本当にそう考えて作ったかどうかは疑わしくても、論じようとすることが真実である(真実となりえる)という確信があるなら断定的に論じてもよい。
ただし、「作者はそう考えたのだ」的な憶測なのに事実であるかのような書き方はよくない。「作者は(結果として)そういうものを作ったのだ」的な事実の断定ならOK。
例を挙げると、
http://www.intara.net/og/portpia2.shtml

犯人が判明し、普通に逮捕して終わりというのではなく、最後の最後でコマンド(命令)というゲームシステムを最大限に利用した仕掛けで「ポートピア」を締めくくった堀井雄二
彼は間違いなく、天才である。

は(手前味噌だが)問題ないと思う。「最後の最後でコマンド(命令)というゲームシステムを最大限に利用した仕掛け」があるのは事実として確認できる。
また、「仕掛けで「ポートピア」を締めくくった堀井雄二。」は、別に意図してやったとは書いてない。無意識あるいは偶然そうなったかもしれない。だが、結果としてそうなったのは事実だ。しかし、

犯人が判明し、普通に逮捕して終わりというのではなく、最後の最後でコマンド(命令)というゲームシステムを最大限に利用した仕掛けを堀井雄二は作ろうとしたわけだ。そしてその結果思いついたのがこの仕掛けである。そうして「ポートピア」を締めくくることができた堀井雄二は間違いなく、天才である。

だと、そのような明確な意図や試行錯誤が事実としてあったという意味になってしまう。
別に堀井さんに直接聞いたわけじゃないし、そういう事実は確認されてないのであまりよくない、ということだ。
我々は、作品という「結果」にしかアクセスできないので、その結果について語るべきであり、「過程」に対して「断定」すべきではない。(「憶測」はかまわないが、論としてのパワーは落ちてしまうのであまり推奨できない)
しばしば作品を論評するときに作者について言及することをタブー視するむきがあるが、この辺の事情も関係があるのだろうか?

憶測を事実であるかのように書いてしまうのは、読者に対して(あるいは作者に対しても)誠実ではないと思う。

そういえば、関連した話は前に書いたので(コメント部分は検索にひっかからないので探すのにちょっと苦労した)、ついでにひろっておく。
http://d.hatena.ne.jp/AYS/20030825

# AYS 『私も「地に足がついた批評/評論」という表現をたまに使うのですが、私の場合はちょっと意味合いが違ってて、それはそれなりの根拠があってさらに論者がそれが真理だと確信しているか、真理になりうると確信しているもの、という感じです(いろいろツッコまれそうな言い方ですが)』
# AYS 『言い換えれば、批評する対象と、批評する自分に対して誠実であるかどうかです。』
# AYS 『ゲームのことをろくにしらないのに論じてる人は対象に対して誠実ではないと思うし、読みかじっただけの他人の学説を自己で消化しないままあてはめるのは、自分に対して誠実ではない。』
# AYS 『知らないうえでの発言だが、と前置きするならともかく。』
# AYS 『論文だとそうはいきませんが。批評でも、かな。ただ、その場合はそのウィークポイントは批判されてしかるべきでしょう』

つまり、知らないのに知ったかぶってしまうのは対象に対して誠実でないのでよくない。
自分の説が真実である(可能性がある)と確信を持てないのにハッタリをかますのは自分に対して誠実ではない。
断定するのはいい。だがそれが真実だと確信できるという覚悟を持て。

話がズレた。冒頭の話に戻ると、中澤氏は最初から自衛隊イラク派遣問題とかに関する自分の考えを主張したくて、たまたま見た映画を引き合いに出してそれを語っただけにすぎない。その意味では、本来映画評として読むべきではない。
ただ、一見映画評のように見えてしまうので、映画評として解釈すると、自分の信条が対象に投影されすぎてて、制作者の意図にまで自分の信条を投影してそれが事実であるかのような書きっぷりなのがイクナイ。以上。