misreading and misleading

http://d.hatena.ne.jp/fs_gohho/20040227

■ [文章] タブー「作者が意図していない感情を書くこと」 12:24
例えば古いモノクロ映画に対して「白黒なのが静謐な空気を出していて逆に良かった」なんて感想を書いてしまうこと。それは作者の意図を読んでいることになっているのか。お前の話を聞きたいんじゃない、おれは映画の話を聞きたいんだ。

http://d.hatena.ne.jp/AYS/20040302

# fs_gohho 『こんにちは。AYSさんが違和感を覚えられたのは「作者の意図」という言い回しが、「なんだか受験国語のくだらない読解力テストみたいになってしまう」ように聞こえてしまったからでしょうか。
AYSさんのログから引きましたところの 『我々は、作品という「結果」にしかアクセスできないので、その結果について語るべきであり、「過程」に対して「断定」すべきではない』 というのには激しく同意でして、しかし同時に、ケースによっては「断定」できることもありうるのではないか。
例えば物陰から意味深な沈黙で探偵を眺める人物には、「もしかしたら犯人かも」コードという作者の意図が読みとれ、(テーマやメッセージを読み解くといったレベルではなく)そのレベルのケースでいえば、問題はないかと思うのですが。古いモノクロ映画もそのつもりの例でした。』

作者の意図を読むのはもちろん批評のトレーニングとして基本ではないかと思います。
批評というのは、表面的には見えづらい(一般大衆には見えない)モノゴトのカラクリを見抜いて、なぜそういう結果となっているのかということを論理的に解明し、それを読み手が納得できるようにプレゼンテーションする場合が多い。(のか?)
だから我々は作者のインタビューを読んだり、メイキングを見たり、「映画の撮り方」「マンガ家入門」みたいな本を読んでどのように作品が創られるのかを学習しようとします。
それを知ることで、「見抜く力」がつき、これまで見抜けないことが見抜けたり、あるいは見当ハズレの見抜きエラーを起こしづらくなります。

この「見当ハズレの見抜きエラー」ですが、見当ハズレか否かというのは批評読者の常識・経験か、あるいは報道や作者の証言・他人の見解などに影響されて判定されます。
たとえば未完成のまま劇場公開されたというアニメ『ガンドレス』とか、下書きのまま掲載される『ハンター×ハンター』を見て(どっちも私はまともに見たことないんですが)、「あれは作者の前衛的表現方法に違いなくて、時間が足りなかったとかいうことじゃない!」などと断言しちゃったりすると、「見当ハズレの見抜きエラー」ということになってしまいます。
それは「配給元からお詫びが出た」とか「他のマンガ家はやってないけど、富樫は人気作家だからな」とか「単行本で直っている」などの傍証から導き出されます。
そういう「見当ハズレの見抜きエラー」というか、トンデモ批評となるのを避けるのは重要なことです。トンデモ批評というネタとしてならいいんですが、素で誤読していると傍から思われると恥ずかしい。http://homepage3.nifty.com/hirorin/tondemotaisho2002.htm#stoneocean
筋が通っているか否かという以前に、「ほ、本気でそう思ってるんですか?」と、そもそも誇ろうとしていたはずの読解力を逆に人並み以下だと疑われてしまいます(これは辛い)。
他人が指摘してないことを言おうと気負いすぎると、三流ミステリーのありえなさすぎるトリックみたいになってしまい、「たしかに筋は通らなくもないけど、常識的に考えてそんなワケないだろ!」ということになる。この手のワナにはまってしまうので注意しましょうhttp://d.hatena.ne.jp/AYS/20030821


と、わりかし低いレベルでというか、常識の範囲内で作者の意図かどうかを判定するのはまあ普通なのです。
fs_gohhoさんの今回の言い方でひっかかった理由というのは(これも何かの受け売りな気配大ですが)、「作者が意図したか否か」をテーマとして批評を行ってしまうと、作者が一番エライことになってしまって、作者様が「それ正解」と言った批評がエラくて、「それハズレ」と言った批評が価値がないものとなってしまうという問題です。
そういうのは批評家として面白くない。というか、後者のように作者に「んなこたぁない」と言われた場合、批評家の立場がなくなっちゃうわけです。

たまに作者のインタビュー記事を証拠にそれ以前に書かれた批評を「的外れ」とか批判している奴を見ます。その場合は2パターンあって、ひとつはその批評が作者の意図だと断定しちゃってた場合。その場合、「見当ハズレの見抜きエラー」ということになってしまってどうしようもありません。
http://d.hatena.ne.jp/AYS/20040207では「作者が意図してやったかどうかは不明なのに、作者の意図が事実であるかのように書くとウソを書いたことになるのでダメ」という論調で書きましたが、また、このように「作家にそれ違う、と言われたら立場なくなる」という意味でもやっぱりダメなわけです。
じゃあどうするか。作者の意図など超越してしまえばよろしい。作中にそのような表現があるのは事実として確認できるのです。「(作者の意図はしらんけど)作品はこうなってるから、こうなのだ!」というスタンスでやればいい。
これがもうひとつのパターンです。批評が作者の意図など問題にしてない書き方の場合、「作者のインタビュー記事を証拠にそれ以前に書かれた批評を「的外れ」とか批判している奴」の方が悪い。作者がどう言い訳しようが、事実作品の中ではそうなっているんだもの、反論の余地は(あんまり)ない。
そういう書き方の方が作者の顔色など気にせずに、大風呂敷を広げることができるというもの。
もちろん、根拠や論理が批評読者にとってトンデモであれば、やっぱりトンデモとして処理されますけどね。

上で引用したfs_gohhoさんの「物陰から意味深な沈黙で探偵を眺める人物には、「もしかしたら犯人かも」コードという作者の意図」というのは、つまり露骨な伏線あるいはミスディレクションの例ですよね。
たしかに何らかの意図を持っての表現であることは明らかです。*1

「(テーマやメッセージを読み解くといったレベルではなく)そのレベルのケースでいえば、問題はないかと思うのですが」というのはたしかに。おっしゃるように、「そのレベル」というのは、それ自身は批評として低いレベルというか、瑣末なことですよね。
それがもっと大きなことを語るうえでの材料のひとつとなるならばよいが、それ自体をテーマとするのはたいていたいしたことじゃない。
とても上手く伏線を張っている作品があったとして*2、それ自体を「上手い上手い」と言ったところで、単に作者を誉めてるだけであって、上手い・面白い批評にはならないんですよね。
批評を書く場合、作者の意図を読むなどというのは当たり前というか、あえてしようとしなくてもしてしまうことです。*3

たしかに自分よりも作者の意図を見抜ける人の意見は面白い。自分は気づかなかったけど言われてみれば納得の証拠(作中表現)を教えてもらえる。
だけど、作者の意図を読むことだけを目的としてしまうと、不毛だ。
作者の意図を知りたいなら、作者のインタビューさえあれば批評家は必要なくなってしまう。その考えだと批評家は間違ったことも言ってしまう作者のデッドコピーに成り下がってしまう。
作者の意図を読もうとするだけでは、原理上、いつまでたっても作者には勝てない。
もちろん、相手と同じ作品創りという土俵では勝負できない。しかし作者すら感心してしまうような批評を書けば、いい勝負になる。批評それ自体が、批評される作品と比肩しうる作品となる。
だから作者の意図にこだわる必要などないのだ。

*1:そういえば、我々は「使われなかった伏線」などというものまで発見してしまう。伏線は後で回収されることによって伏線となるので、本来はありえないはずのものだ。しかし我々はそれが何らかの意図を持って描かれたことがわかる。そして、連載が続く中で忘却あるいは放棄されたとか、回収のシーンは初期の脚本ではあったがカットされたのではないか、などと推測するのだ。

*2:私は三度の飯より上手い伏線が好きで、「伏線」をキーワード化したのは私(どうでもいい)。

*3:たぶん我々は他人の意図を読む能力があるから社会生活を営めているわけで、自然と他人の意図を読もうとしてしまうのだろう。