as a rule

  • ゲームとしての物語 ―3,ゲームと物語の分岐点―

久々にキター!
http://red.ribbon.to/~kiriko/rule3.htm

「駒」に振り分けられる「アビリティ」は、大まかに分けて二種類存在するのである。
 ひとつは、「能力アビリティ」。これは「その駒が何を出来るか」を規定するアビリティである。「クイーンは縦横斜めに好きなだけ動ける」というのがこれに当たる。ジャイアンは喧嘩が強い、ブラックジャックは手術が巧い、夜神月は頭がいい……といったものも「能力」である。
 そして、もうひとつの「アビリティ」が、登場人物の「内面アビリティ」になる。この要素は、登場人物の性格や嗜好、目標、どの人物を好いていてどれを嫌っているか……などなどがこれに当たる。「一つのシチュエーションに置かれた時、この人物はどのような行動をするか」を規定するものである。

(かなり省略して抜粋しています)

さすがである。
今回の説明は、我々がまったく知らなかったことではない。
これらのことは、我々はこれまでの作品鑑賞経験から、無意識に身につけていて、常識的に知っていることである。
しかし、それを特に問題意識として浮き彫りにしないでスルーしている部分でもある。それを見事に言語化してくれているところが素晴らしい。

物語の主人公にはしばしば「弱点」が設定されるが(ネズミが嫌いだとか、高所恐怖症だとか、警察に追われているとか)、これもある種のアビリティである。(能力と内面のどちらに分類すべきなのだろう?)
「ネズミと出会う」「高いところを通らないといけない」「向こうから警察がやってくる」というシチュエーションに遭遇したとき、これらのアビリティが発動し、サスペンスが生まれる。

 さて、この二種類のアビリティの最も大きな違いはなんだろうか。
 それは、前者が原則的にほとんど変化しないのに対し、後者が生き物のように変化していくことにある。「ジャイアンは喧嘩が強い」という「能力アビリティ」は、基本的に変化しない。 が、「内面アビリティ」はちょっとしたことでどんどん変化してゆく。『さようなら、ドラえもん』において、のび太ジャイアン襲撃時アルゴリズムは、「ジャイアンに襲われる → 逃げる」である。しかし、「ドラえもんが帰ってしまうこと」をバネに、のび太は「ジャイアンに襲われる → 立ち向かう」といったようにアルゴリズムを変化させる。。このように、「内面アビリティ」は物語の中でどんどん変化してゆく。 そして、「物語を読んでなぜ感動するか?」の答えが、この「内面アビリティの変化」にある。つまり、登場人物の「成長」である。ほとんどの物語は成長物語であり、読者は主人公が成長していく姿に感動を覚える。つまり、「内面アビリティ」のアルゴリズムの変化に感動を覚えるわけで、この推移が物語の感動の正体だ。

私は最近のジャンプマンガを読んでないので古い例になるが、『ドラゴンボール』『聖闘士星矢』『ダイの大冒険』などのバトルマンガは、「主人公はこの強敵に絶対勝てない」→「逆転勝利」というフローをたどる。
主人公と強敵の能力アビリティは歴然としており、そのルールに従えば、主人公は絶対に強敵に勝てないはずなのである。それにも関わらず勝ててしまうというのは、キリコさん指摘の「さようならドラえもん」の例とある意味同じである。*1

さて、これらを「アビリティの変化」ととらえるか。まあそれでもよい。「戦いのさなかで新しい技を編み出した」とか、具体的に「能力アビリティの変化」が描かれる場合がある。
そういう場合はさておき、しかしこういう見方もできる。
「アビリティ」は変化していない、と。
ただ、低い確率で発動する何かがそこに内包されていて、それがたまたま(あるいは精神の力で)発動した、とも解釈できる。
つまり「奇跡」である。奇跡の発動理由としては、主に「根性」(主人公の意志の強さ)が好まれる。*2
この「奇跡」の目撃によって読者は感動を覚えている、ということも考えられる。
ビデオゲームの例でいえば、モンスターの攻撃を受けて死んだと思ったら、HP1でギリギリ生きていて、次の敵の攻撃をかわして、会心の一撃で敵にトドメをさした、みたいな場合である。この場合は、彼我の能力は変わっていない。

*1:特に『ダイの大冒険』のポップ君は「さようならドラえもん」ののび太であり、なけなしの勇気をはたいて強敵に立ち向かっていく姿は感動的でした。
さらに、死んでからも戦うという奇跡にも感動。そういえば、『FF5』にもHP0で戦い続けるシーンがありましたね。

*2:ジョジョの奇妙な冒険』は、主に知恵の力で逆転勝利し、奇跡に頼ることは他のマンガと比較すれば少ない。その点が私がこのマンガが好きな理由のひとつである