過ぎたるは猶及ばざるが如し

逆転裁判3』公式サイトhttp://www.capcom.co.jp/saiban3/の予告ムービーがあまりにも燃えるので、『逆転裁判2』についてでもGAMIANになんか書こうかなあ、などと思っていた今日この頃だったのですが。

Goebbels氏『逆転裁判』〜ローリスク・ハイリターンのゲームプランニング〜http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/goebbels/court.html

2.「"開かれた"状態を作る方法論の欠如」

 まず「開かれたゲーム」という用語を分かり易く説明する義務があるだろう。「開かれたゲーム」とは、いかようにもプレイし、解釈できるゲームのことだ。「自由度が高い」という表現がもっとも近い言い方だろう。反対に「閉じられたゲーム」とはプレーヤーが介入する余地の少ない、プレイスタイルの限定されたゲームのことを言う。代表的な例を挙げれば、『俺の屍を越えてゆけ』が前者にあたり、『ファイナルファンタジー』が後者にあたる。

 『ファイナルファンタジー』のようにストーリーを表現することにこだわり、映画に近づけていこうという流れがあるのと同時に、自由度の高い開かれたゲームを作ろうという潮流がここ十年あまり目立ってきている。

 これはアドベンチャーゲームの変遷を見ていくと非常に分かり易い。1980年代、「PC-98」やファミコンで人気の高かったアドベンチャーゲームは一本道のミステリーを解いていくというものがほとんどだった。『ポートピア連続殺人事件』しかり、『さんまの名探偵』しかり。ゲーム構造は極めて「閉じられて」おり、プレーヤーはストーリーにそって話を進めていくだけであった。その後1990年前後からマルチシナリオ、マルチエンディングシステムを売りにしたゲームが多数登場する。これは1980年代的な一本道アドベンチャーゲーム(当時は紙芝居アドベンチャーと言ったものだ)に対するアンチテーゼであり、「開かれた」ゲームを目指そうとする制作者達の意志の現れだろう。 しかし今まで一本のシナリオで済んでいたところを、分岐やエンディングを含め何通りものシナリオを用意しなくてはならなくなるのだから、単純計算すれば解るとおり、開発コストも何倍にも跳ね上がる。しかもそれは、プレーヤーが自分自身で解釈できる「開かれたゲーム」とは言い難い、ただ多数のストーリーの中からプレーヤーが選択しているだけだからである。所詮は押しつけられた物語というわけだ。

 アドベンチャーゲームのシステム的変更はこの一回だけで、ゲームとしてのこの後の進歩はハードの性能向上に頼った表現力(グラフィックや音楽)の向上だけであった。確かに複雑系システムの片鱗を見せた『同級生』や、アドベンチャーゲームのシステムそのものをパロディーにした『YU-NO』など数々の実験的作品が成功を納めはしたが、それがゲームシステムの未来を切り開くものであるかどうかという面から言えば、従来通りのシステムを応用したに過ぎないと言わざるを得ない。

(情報源:http://a.hatena.ne.jp/psyq/

お、「ゲーム性」のあやふやさを暴いた井上さんの次なるターゲット「自由度」が来た。

「開かれたゲーム」≒「自由度が高い」という言い方をしているのが、やや気になる。
筆者が文中で挙げている『俺屍』(筆者はホームページによるとhttp://www.01street.com/いわゆる枡田信者らしい)や、ここからは私の想像だが、『ロマンシングサガ』シリーズなど、あるいはいまフリーシナリオを謳ってCMが流れている『オリエンタルブルー −青の天外−』http://www.nintendo.co.jp/n08/aorj/などが、「開かれたゲーム」だというのだろう。
また、「開かれたゲーム」の方が「閉じられたゲーム」より好ましい、という価値観も行間から感じられる。
「開かれた」という表現だが、「Unberto Eco,1967, Opera Aperta, Milano, Bompiani, 〔篠原資明/和田和彦訳『開かれた作品』青土社, 1997 年〕」(ママ。実際は篠原資明/和田忠彦訳のようだ) を参考文献に挙げているので、そこからの発想なのだろう。

googleで「開かれた作品 エーコ」で検索してみたところ、意外にもビデオゲームをからめたものがけっこう上位に来ていた。http://www.kaikaikiki.co.jp/dojo/r-syodan/index01.html http://www.kyoto-one.ad.jp/gap/1gap/2now/gakusyuukai/december11-re.htm http://www.kcat.zaq.ne.jp/andoyan/replyto/gap009.htm等。
私は例によってエーコなんて読んでないのでよくわからんのだが、「自由度が高い」「『プレーヤーが介入する余地の』多い」などという手垢のついた表現の言い換えとして、「開かれたゲーム」などという表現を使ってよいものか。
エーコは作品の解釈の話をしていたのではないかと私は勝手に想像しているのだが、ゲームシステムが個々のプレイヤーの操作に合わせて(特にシナリオに関して)柔軟性を持つことと、プレイヤーのあらゆる解釈の余地の話とを意図的に混同すべきではないと思う。

さて、『逆転裁判』に関しては、私がhttp://www.intara.net/og/gyakuten.shtmlとかhttp://d.hatena.ne.jp/AYS/20031008で書いたこととだいたい似たような議論なのだが、次のように続けている。

プレーヤーには頭のいい人もいれば悪い人もいる。悪い人に合わせて情報を提示しすぎれば頭のいいプレーヤーはシナリオ展開の先の先まで読んで、推理をショートカットしようとするだろう。

「凶器は○×だ」→「殺害時刻は14時だ」→「Aの14時のアリバイが崩れた」→「凶器○×はAの持ち物だ」→「犯人はAだ」

という推理の展開があったとすると、条件提示の仕方によっては「凶器は○×だ」と解った時点で頭のいいプレーヤーは「凶器○×の持ち主はAで、犯人はAだ」と解ってしまい、ゲーム側が「殺害時刻は…」と展開をするのをまどろっこしく、不快に感じてしまうだろう。『指輪世界』(http://homepage1.nifty.com/~yu/index.html)の 伊藤悠が指摘するように(http://homepage1.nifty.com/~yu/game/adv.html#gs)『逆転裁判』はこの問題を根本的には解決できなかった。根本的な解決できなかったが故に、小気味が良く配置された効果音(「異議あり!」「喰らえ!」など)によってプレーヤーを気持ちよくさせることに心身を注いだのだろう。気持ちよくプレイして貰えなければ、せっかく「開かれたゲーム」として錯覚させられたのに、いつその夢から覚めてしまうか解らない。しかし目的は「錯覚させればそれでいい」というところにある、一つのシステムのほころびは他の要素で補う。いくつものつぎはぎを重ね合わせたところで、プレーヤーを騙せればそれでいいではないかという発想の逆転が『逆転裁判』の秀逸なところなのだから。

おおっ、我らがityou氏のお名前が登場! いきなりなのでびっくりした。
だが、「解った時点で頭のいいプレーヤーは(略)展開をするのをまどろっこしく、不快に感じてしまうだろう。(略)『逆転裁判』はこの問題を根本的には解決できなかった。根本的な解決できなかったが故に、小気味が良く配置された効果音(「異議あり!」「喰らえ!」など)によってプレーヤーを気持ちよくさせることに心身を注いだのだろう」とあるが、プレイヤーが「わかってしまう」のが弱点で、それを演出でカバーしていたという指摘はやや的外れではなかろうか。
むしろ、「わかってしまう」からこそ、『逆転裁判』のプレイヤーは快を感じていたのではないかと思う。
キリコ氏の「ミステリの構造と傑作ゲーム「逆転裁判」について」に

プレーヤーの快感。
この、全てのゲームにおける根源的な醍醐味を提供するために、「逆転裁判」は事件の難易度を切り下げました。誰でも考えれば解ける事件。しかし、ゲーム内においては、主人公である弁護士が解かなくてはならない。ゆえに、主人公以外の登場人物が、プレーヤーより馬鹿である必要があったわけです。

とあるように、プレイヤーには「わかってしまう」ことこそが、『逆転裁判』の醍醐味だったのだ。

伊藤悠氏がhttp://homepage1.nifty.com/~yu/game/adv.html#gsで指摘しているのは、「逆転裁判でも何箇所かに、情報提供管制の失敗がみられる」と書いているように、『逆転裁判』ではゲームの側がプレイヤーに過不足なく推理のための材料を提供しなければならない、という話であって、『逆転裁判』のゲームシステムにはプレイヤーが「わかってしまう」という弱点が内在している、という指摘ではないと思う。
たしかに、「異議あり!」の決め台詞、そして巧みな音楽の演出効果は見事なのだが、それが「情報管制の失敗」をごまかすためのものではないだろう。
逆転裁判』において、「情報管制の失敗」はプレイヤーは露骨に感じてしまう。そしてそのパートは証人の証言中である。推理しなければならないシーンに派手な演出はない。
「情報管制の失敗」が稀に起こるプレイヤーの推理を要求するシーンでは、http://homepage1.nifty.com/mitori/iroiro/midi/surviban6.midという落ち着いた音楽が流れ、プレイヤーに推理を要求する。
次に同じ曲をアレンジを変えてhttp://homepage1.nifty.com/mitori/iroiro/midi/surviban.mid推理が正しいこと、解決いや「勝利」へ向けて前進したことをプレイヤーに知らせる。
ついに謎が解けると、したり顔でナルホド君が事件の種明かしを始めるシーンがある。http://homepage1.nifty.com/mitori/iroiro/midi/surviban2.midゲームの側からの真相の提示であるとともに、ここでは謎を解き終わったプレイヤーの余裕も表現されている。
だが、ここまでの演出は「タメ」であって、次の演出のための伏線にすぎなくなる。
その後、トドメの曲http://memory75.hp.infoseek.co.jp/m_gyaku.wmaを流し、ナルホド君のアップと横に流れる流線のグラフィックを用い、たたみかける展開でプレイヤーを一気に解放する。2D格闘ゲームの老舗カプコンの面目躍如である。(なるほど君が左側にいて右を向いているのは、もちろん『スト2』のプレイヤーキャラがそうであるからだ。サイバンチョに向かって撮った場合、ナルホド君は本当は右にいる。これは法廷全体のシーンでもわかる)

さて、『1』では情報の与えすぎによる「情報管制の失敗」があったわけだが、『2』ではどうか。この件に関してはちょうど今日公開されたキリコさんの記事にも書かれている。

逆転裁判2」と後期クイーン問題http://red.ribbon.to/~kiriko/game3.htm

結論から言うと、1〜3章まではかなりイマイチ、4章のみ物凄く面白かった、というところでしょうか。
なぜ1〜3章が駄目なのかというと、実に単純な話で難易度が高すぎるんですよね。

前作のレビューでも言いましたが、「逆転裁判1」は事件の難易度を極端に切り落とすことで、「子供でも考えれば解ける謎」というゲームバランスを忠実に実現していました。
しかし「逆転裁判2」はこの辺のチューニングがユルユルです。難易度高すぎ。しかも、「難しいけれど必死に考えれば解ける謎」ではなく、「考えても解けない謎」が多すぎて非常にストレスがたまります。手がかりが少なすぎる、こっちが立てた仮説にゲーム側が全く反応してくれないなど、「謎解き以外の難易度」が鬼のように高く、ほとんどコマンド総当りゲームに成り下がっている感もあります。

なぜこのようなことになったのかというと、単純に前作の評価が高すぎたため、易しく解けるようなものだと批判を食らう、と考えたからなのでしょう。製作者側が取った行動は単純に難易度の目盛を上にあげることであり、その結果このようなストレスゲーが生まれてしまったのだと思います。

『1』の情報の与えすぎによる「情報管制の失敗」がままあったのに対し、『2』では情報不足による「情報管制の失敗」を頻発してしまったのである。これはひじょうに惜しかった。「ほとんどコマンド総当りゲームに成り下がっている感」というのは同感。元々コマンド総当たりゲームの「探偵パート」も無駄に長くなってしまったし、退化してしまったのだ。
この「失敗」を制作者側が自覚しているといいのだが。『3』ではどうなっているのだろう?
ただ、『逆転裁判2』は奇跡的に駄作にならなかった。唯一の白眉であるところの第4章がある。これに関してはまた今度。