as a natural consequence

キリコさん「ゲームとしての物語―2.駒とアビリティ(能力)の設定―」http://red.ribbon.to/~kiriko/rule2.htmについて(1)
読みながら鳥肌が立つのを感じたのはいつ以来だろうか。
「シナリオの書き方」といった本を読むと似たような話が(部分的に)まれに書いてあったりすることもあるし、私にとってははじめて知るような話というわけでもない。
しかし、キリコさんほど読んでいて心地よく、かつきれいに整理され概念化され明快に表現したものを私は読んだことがない。
チェスという絶妙な喩えとドラえもんという具体例。そしてその文体。批評家としての力量にただ慄くばかりである。
というよりも、あれだけの練られた内容にこのような書き流したコメントをつけるのが失礼に感じるほどだ。

 チェスの話を続けると、盤上に配置された32の駒が全てクイーンであったとしたら、戦略はなくなってしまう。ポーンがいて、ナイトが控え、ビショップが動き、ルックが走ることで、ゲームに戦略が生まれ、駆け引きが生まれる。
彼らにはそれぞれ「やれること」と「やれないこと」、「能力」と「制約」が与えられており、これがチェスというゲームにおける「アビリティの設定」にあたる。
これは物語についても同様で、登場人物に割り振られる諸因により、登場人物がどの範囲まで動くことが出来るのか、どの程度まで考えることが出来るのかが決まる。

これはまさに(いわゆる「ゲーム性」を追求した)ゲームデザインと、無駄のないシナリオに共通する部分である。
また、よくマンガ家や作家などが「キャラクターが勝手に話を展開させてしまう」と発言するのはこの点にある。
それはパズルの一種である詰め将棋を解くときのようなものだ。問題に自分の駒が6枚あれば、初手で6枚のいずれでも、どのようにも動かしてよさそうなものだ。しかし、パズルの正解である「詰み」へ導くためには、1枚の駒を1通りの動きにする以外なくなる。
同じように、作中の特定の登場人物たちが特定の状況に陥ると、キャラクターはビリヤードの玉のように相互に干渉しあい、結果は自ずと決まってくるというわけだ。
ただし、それだけでは読者も展開が読めてしまう場合があるので、そこにいいタイミングで別のキャラクターを投入するとか、状況自体を変化させるなど、(ご都合主義ととられないように)無理なく調味料を加えて予測と外れた展開にするのもまた作者の手腕が問われるところである。

物語上一番やってはいけないことがひとつあって、それは「設定したアビリティを何の脈絡もなく覆してしまう」ことになる。例えば、上記のシチュエーションで、怒り爆発したのび太が突然相手を殴り倒す……というようなことはタブー。こうしたアビリティの反故が「ご都合主義」の正体である。
(……)
 また、もうひとつやってはいけないことは、「アビリティを読者に明示しないこと」である。

つまり「ゲーム」のルールを反故にしてはいけない、(ご都合主義的に)隠してはいけないということですな。この辺はキリコさんの「▼大長編「ドラえもん」全作レビュー」http://red.ribbon.to/~kiriko/column.htmに詳しく、伏線なしの強引な展開の有無についていずれにも(現時点で「宇宙小戦争」まで)言及があります。併読をお勧めします。

(蛇足ながら詰め将棋について知りたい人は→http://www.shogitown.com/tume/top-t.html