どうなんだ!?

井上明人さんは、カイヨワをはじめとして、クロフォード、コスティキャン、ざるの会、松谷創一郎、茂内克彦、児玉哲彦http://web.sfc.keio.ac.jp/~codama/wiki/wiki.cgi井上明人、高橋浩徳http://www.asahi-net.or.jp/~RP9H-TKHS/game_ron.htmらのゲームに関する議論を検討するだけでなく、
ピアジュ、ミード、エリクソンフロイト、ボイデンテイクら発達心理学教育心理学者の論(具体的にはEllis, Michael J.、森楙[ほか]訳『人間はなぜ遊ぶか : 遊びの総合理論』 黎明書房 1985、高橋たまき・中沢和子・森上士朗 『遊びの発達学−基礎編−』培風館など) 、心理学者(?)M・チクセントミハイ『フロー体験 喜びの現象学』、日本人では、井上俊、多田道太郎など、哲学:ジャック・アンリオ、西村清和などの遊び論についても検討されているようだ。偉いっ。偉すぎる。
私は上に挙げた人(「するだけでなく、」の後に書いた人)の本で、ちゃんと読んだことがある本はたぶん1冊ぐらいじゃないだろうか。名前も知らない人いるし。

ここからは完全に言い訳になる。学術的にはセルフハンディキャッピングというやつである。
私がこれらの遊び論の本を読まないのは、単に面倒くさいとか、難しくてわからないとか、退屈すぎるから嫌だ、という理由が大きい。
だがそれだけではない。
一番大きな理由(と思いたいもの)は、
そもそも自分自身が抱いている見方を表出しきらないうちに、他の考え方にふれてそちらに流されないかという危惧があるからである。
もちろん他の考え方にふれることによって、その差異から自分の見方の輪郭が明らかになることも多いだろうが(だからクロフォードとかゲームについて直接的に書かれたものは極力読んでいる)。
そもそもビデオゲームと「遊び」を結びつけて考えようという考え自体私にはあまりない。
ビデオゲームを突き詰めていけばたとえばカイヨワ的な分類とかが出てくるかもしれないが、無理に現実世界の(と言う言い方は好きではないのだが。何と言うべきだろう。non-videogameとか??)遊びから類推しなくてもよいではないか。
私はむしろ遊びからビデオゲームを考えようとするのではなくて、ビデオゲームを考えたら結果的に遊びについての何らかの論考ができた、みたいな展開を期待したい(別に展開しなくてもよい)。

あまり評判の芳しくない私の意思決定・鑑賞・操作の三分類は、わかりやすいように将棋・映画・玩具とかと比較したが、別に現実世界に将棋・映画・玩具があるからビデオゲームにはそれがあるかどうか見てみたわけではない。ビデオゲームについて考えていたらnon-videogameなものとの類推が出てきただけである。

というあたりで野安さんの日記から引用。
http://plaza18.mbn.or.jp/~noyasu/nikki/2003-102.htm

●10月19日(日)
(……)
なぜ会話が通じなくなるかというと、参加者それぞれが「ゲームとは、こーゆーものだ」と思っているんだけど、その認識が、じつはバラバラだからです。そのことに気づいている人もいるけど、気づいていない人も多くて、だから会話がおかしくなっていく、

ちょっと前の日記で、「ジグゾーパズルは、もとの絵が何ピースに分割された時点で、パズルになるのか?」という問いかけをしたことがあります。答えは明快で、「そんなもんは、人によって違う」なのです。なのに

「8ピースのジグゾーパズルなんて、パズルじゃないよ(藁」
「2000ピース以上のジグゾーを好きなヤツは、ただのジグゾー信者」
「てゆーか、そもそもジグゾーパズルなんて面白くねーんだよ(プ」

みたいな会話がスタートしているようなもんです。みんなが、自分が理想とするピース数こそがベストである、という立場に立ってしまうため、もはや議論になってない。そもそも「遊び」ってのは、すべてが個人的な体験であり、その個人的な体験を元にした意見しか持っていないから、このような状況になりがちなのです。パズルにかぎらず、遊び全般がそうです。「スポーツ」も同様ですね。

たとえば、チェスはスポーツですか? 野安の認識では「スポーツ」なんだけど、これは海外生活が長いからでしょう。欧州では、そのような認識が一般的であり、野安はそっちの影響を多く受けている。でも日本人の多くは「スポーツ」だと認識していなくて、「スポーツではない」ことは、議論するまでもなく、当然のことだと思っている。だから「チェスをオリンピック種目にする」という動きがあることを、一種の笑い話だと受け止めたりする。

でも欧州の人たちにしてみると、「チェスはスポーツである」ことは、議論するまでもなく当然こと。だから「チェスはスポーツではない。ゆえにオリンピック種目にするのはオカシイ」という反論が、まったく理解できない。だから両者が討論しても、意見は歩み寄るはずがない。お互いに「あいつ、言ってることが理解できねーよ」となる。ゲーム関連の掲示板が荒れるのと、まったく同じ構図ですね。

野安'sグローバルスタンダードキターーー! と、いうのはまあ置いておいて。

ここの「いろんな考えを持ってる人がいることを認識しよう」という論旨自体はもちろん異議なし! なんですが、やっぱり「海外生活が長い俺にはチェスはスポーツだと思うねフフン」みたいな態度の表明は見ていて痛い。いや痛いのは別にフフンの部分だけじゃなくて。
重要なのはなぜ自分はそう意識するのか、ということだと思う。「欧州の人の影響を受けてるから」で終わってはいけないのではないか。他の人がそうだと言ったから何の疑いもなくそう思い込むのか。自分なりに納得のいく理屈があるからそう理解しているんじゃないのか。どうなんだ!?(←長井秀和風に)
なぜチェスはスポーツなのか、あるいはスポーツではないのか。
チェスがgameなのはまあ大方の人が納得するところだと思う。野球やサッカーもgameであることを疑う人は少ないだろう。
対して、野球やサッカーはたいていスポーツだと考えられている。しかし英語のsportは狩猟や釣りなども含まれるという。
gameには狩りの獲物という意味がある。
というようなことから発想すると……ま、いいか。(鳥山明or堀井雄二的決着法)
チェスがスポーツかどうかは置いておくとして、クロフォードだったかコスティキャンだったか(どっちなんだよ)が「シムシティーはgameじゃなくてtoyだね!」とか言ってるんだった。
これもgameという言葉の定義のしかたの文化的影響によるところあるのだろう。でも一般にいうtoy(というか日本語でいう「おもちゃ」)とも違うだろうという気が私はする。
まあ、私も、テレビゲームはゲームとは限らないとかいつも言ってるのも同じようなものなのだろうなあ。と、例によってグダグダになってオチがつかないまま終了。

野安さんの掲示板はスレッド式ごとにしか読めないから読むのが面倒くさくてほとんどチェックしてないのですが(なのでいい議論があったら教えてください>読んでる方)。