Someone to Watch Over Me

ネタ切れなので、2003/6/17に書いたメモをもとに。

ICO』インタビュー
http://www.1101.com/OL/2002-08-23.html

田: ええ。この「女の子」には、
だいたい4つの意味があるんですけど、

1つは、ヒントを出す存在として、
2つめは、パズルの偶然性をより高くするため、
3つめは、見せるキャラクタとしての存在、
4つめは、モチベーションを維持するための存在、

っていうのがあって。
斎藤: ああ、ここはゲーム制作者が、
真似したくなる部分かもしれません。
この「ギャラリーを中に持つ」
というところですけど‥。
上田: たとえば「見せるプレイ」とか、
「仮想のギャラリ」ですけど、
自分がうまいプレイをしたときに
「うまい!」とか「すばらしい!」
とか言ってくれるよりもね。
まーしゃ: あはは! それは太鼓もちになっちゃう。

……

海道: アクションゲームの中で、
主人公が2人というのは多いです。
たとえば、ゲームのガイド役、
主人公をスウィッチさせるとか、
ストーリーを語らせる語り部的役割とかね。

でも、ICOのような形で、
もう1人を使ったのは今までにはないですね。

ヒロインのAIっていうと、
駈け引きを楽しませるために、
相手が人間であるかのように見せる方向ばかりで
使われていたんですが、
こういうふうに感情移入のために
AIを使ったのは新しいです。

いろいろとネタに富む話なのだが、今回は「仮想のギャラリ」に注目したい。

ビデオゲームの多くは、コンピュータによる課題の提示→プレイヤーによる課題への取り組み→コンピュータによる評価 という流れになっていて、「評価」というのがつきまとう。
ぶっちゃけ、プレイヤーというのは、コンピュータのアメとムチに踊らされる存在である。

一般に、プレイヤーはより難しいと自らが感じた課題を解けたとき、より快を感じる。
難しい≒不快というマイナスへの振幅がゼロに戻ることにより、単にその際のプラスへの振幅の幅が大きいためかもしれないが。

ただ、それだけでない。ビデオゲームは表現メディアであり、演出という要素が存在する。
プレイヤーが課題を達成したとき、上手く誉めてやる演出もまた重要だ。それはプレイヤーの達成感を増幅させる装置となる。

私がしつこく例にあげる『エースコンバット04』の、後半のプレイヤーキャラへの賛美は過剰とまでいえるほどだが、直接誉めているのではなくて、間接的に誉めているのが洩れ聞こえてくる、という風にしていたのは上手かった。
直接的に評価されると、お世辞とか、そこに何らかの異なる意図を人は感じるのだが、間接的だと、そういった意図は感じにくくなり、素直な評価だと感じがちだからだ。(広告より口コミの方が信憑性を感じるのと同じ)

直接的でも、プレイヤーの選択・達成への評価の演出は重要だ。『ときメモ』やその他のギャルゲーで、最初は「友達に噂とかされると恥ずかしいし」などとつれない態度をとられていた相手に、最後に認められると、妙にうれしいのもこれだろう。
エースコンバット3』の典型的軍人タイプのキースたんも、最初は「てめーのことなんか認めねーぜ」とか言ってくるのだが、最終的には「いくぜ、相棒!」などと言ってくれるようになるのもうれしかった。
こうした最初の低評価っぷりという伏線も有効である。
誉める前にけなしておけ。誉めさせるなら、鬼軍曹に誉めさせろ。