やり込み的考察

昨日付けのコメントで

uel 『『現実世界の価値基準を持ち込む』俗に「縛り」というヤツですね。早解きや低レベルクリアといったゲームスタイルもコレに属してる……と言い切っちゃっていいんですかね?』

というのをいただいたので、今日は「やり込み(やりこみ)」について思いついたことを書こうと思う。
「(ゲームを)やり込む」という独特の表現がある。
これは、一見「のめり込む」と似ているので、「ハマる」と類義語のようにゲームを知らない人は感じるかもしれないが、まったく意味が異なる。
「のめり込む」「ハマる」は、ゲームに麻薬的な面白さがあるような場合に、ゲームの魅力にプレイヤーは魅了されて長時間遊んでしまう、といったイメージの言葉だ。
対して、「やり込む」は、ゲームの面白さとは基本的に無関係に、プレイヤーがそのゲームに多大な時間あるいは手間など(コスト)をかけて取り組むさまを表す。
「のめり込んだ」「ハマった」というと、プレイヤーがゲームに引っぱられたようなイメージだが、「やり込んだ」というと、プレイヤーがもっと主体的・能動的に、ゲームと格闘していったようなイメージだと思う。
さて、その「やり込む」の名詞形が「やり込み」なわけだが。

浜松で、伊藤悠さんとともにお世話になった小柳津さんが、やり込みについて論じているので(当時、けっこうこの話題も議論した)、とりあえずそこから引用しよう。
http://onimoekai.hp.infoseek.co.jp/gken/g05.html

これまでの歴史をかんがみると、「やりこみ」の主流は、
1. 暴力のやりこみ、
2. 財力のやりこみ、
3. 知力のやりこみ、
の順で移り変わっている。
……
暴力のやりこみとは、単純なゲームの熟達である。
反復練習はプレーヤを熟達者にする。
そして、ゲームに費した時間の量に比例して、上級者から初心者までの階層が形成される。
……
次のやりこみは財力のやりこみ(パワープレイ)である。
パワープレイとは、LVMAX・所持金最高・アイテムコンプリートといった、人月の投入によって得られる最高のものを求めるプレイをさす。
このようなスタイルは、目の前のゲームを楽しみ尽くすことを主目的としている。
だが、こうしたプレイスタイルの最終到達点は、誰もがたどり着くことができる。
手間と時間さえ惜しまなければよいのだ。
……
最後のやりこみは知力のやりこみである。
知力のやりこみとは、プレーヤによる創造である。
端的な例を挙げるとすれば、タイムアタックや最小LVクリアだ。
作り手がシステムに工夫を凝らすのではなく、受け手であるユーザが与えられたルールから取捨選択により自分好みのシステムを構築するというゲームともいえる。
アイテムなどの制限は、その要素をシステムから削除することでする。
最短クリアは、ゲームの目的をエンディング到達から最短手の発見に変換することとして考えることができる。
……
コンピュータゲームのプレーヤは、ゲームをプレイする際に、常にブラックボックスを相手にしているのだ。
そこでは、可能な限りの合法手の入力により、ブラックボックス解析が行われる。
そして、なかば意図することなく強力な手段(定石)を獲得する。
経験則から、このRPGでは物理攻撃が強い、あのSLGでは移動力が最も重要である、というようなゲームを解くための近道を身につけるのだ。
こうした知的な探求活動が、知力のやりこみを支える。
なぜなら、システムを理解しなければ、心地よいゲームが成立するためのシステム変更などできはしないからだ。

「暴力のやりこみ」→「財力のやりこみ」→「知力のやりこみ」というふうに移り変わった、というのが小柳津さんの説である。
「暴力のやりこみ」は、アクション/シューティング系、アーケードゲームに向いたやり込み方法であって、「財力のやりこみ」は、RPGSLG系、パソコン・家庭用ゲームに向いたやり込み法である。
よって、暴力→財力という流れは、アーケード・アクション/シューティング→家庭用・RPGというゲームの流行の変化によるものだといえるだろう。
アクション/シューティングは、何度も反復し、プレイヤーがスキルを蓄積するタイプのゲームである。毎日の最初のプレイは、一般に同じスタート地点から同じ条件でゲームをはじめる。
RPGSLGは、セーブデータをロードし、以前プレイしたところの続きからプレイを再開することによって毎日のプレイがはじまり、スキル等はゲーム内のキャラクター等に蓄積される(経験値、アイテムとか)。

で、これらは単に普通のアクション、シューティング、RPGSLGのプレイ方法の延長であって、通常のプレイヤーがやる以上に、つまり過剰にコストをかけることがやり込みとなる。(レベル50でクリア可能なのに99まで上げるとか)

さて、「やり込み」の問題で一番問題としたいのは小柳津さんが「知力のやりこみ」と呼んでいるものだ。これは、プレイヤーが、システムによって許容されている何らかの要素を意図的に自ら不可能なものとし、自ら難易度を上昇させる行為であるといえるだろう。

これは小柳津さんが指摘している通り、プレイヤーは無意識的あるいは意識的にゲームシステムを解析することによってより効果的・効率的な攻略法を見出す習性があり、やはりその延長であるといえるだろう。
それはいいとして、ここで一番注目すべきなのはゲームのルールをプレイヤーが再構築することにある。
人対人のボードゲームテーブルトークRPGなどでは、プレイヤー間(いる場合は審判・ゲームマスターも)の合意によってルールは改変することができる。
なぜならば、そう改変したほうが面白くなるとか、よりスムーズなプレイが可能となるとか、利点を認められたうえでの合意によるものであるからだ。
しかし、コンピュータゲームのような絶対不可侵(改造ツール除く)の存在が、ルールと審判を司るゲームでは、プレイヤーがシステムとしてのルールを削除・追加・改変することはできない。
プレイヤーにとって、難易度が低すぎると感じるようになったビデオゲームでも、プレイヤーがシステムを変えることはできない。(難易度選択の話にも展開できるが、システムの一部なのでここでは略)
よって、現行のシステムの範囲内で、プレイヤーが自ら禁じ手を設けることによって、ゲームをより困難にするのである。
マンガなどでよく敵キャラクターが左手しか使わないで戦うとか、補欠選手だけでプレイを行うとか、ウェイトを身にまとっているとか、勝手にハンディキャップをつけるのと似ている(そういう敵はたいてい全力を出した後、主人公に負けるが)。

ともかく、ゲームのルールについて考える我々(?)は、このプレイヤーによるルールの再構築という要素を見逃すことはできない。
なぜならば、それはゲームをより面白くプレイするための知恵であり、それはゲームデザインにおけるゲームのルールの最適化という作業ときわめて似ているからだ。

両者は似ているので、逆にゲームデザイン時にこの発想は有効となるかもしれない。ゲームデザイン時に難易度を低下させたい場合、バランス調整によらず、構成要素の増減を行う際には、現状を「やり込み後」だと仮定し、「やり込み前」をイメージすればよい。
たとえばやり込みで倒さなくてもよい強敵をわざと倒したり、回復アイテムの使用を禁じるという場合が考えられるタイプのゲームであれば、敵を減らすとか回復アイテムを増やすなどということをすれば、難易度を下げられる。(こうした発想をしなくても思いつく話なので、あまりいい例ではないが)

※長々と書いた割には、たいした内容はなくてすいません。