SFC→GBAのありがたみのなさ

モリサワジュンさん
リマスター物件の有難みと面白さの関係をGBA版『MOTHER』から考える
http://pop-site.com/column/col032901.htm

まさに私(だけじゃないと思う)が任天堂GBA“旧作新作ソフト”に感じていたことを、きれいに明文化してくださっている。

かつて「完全移植」には、神棚に上げて拝みたくなるぐらいの有難みがあった。それは、移植の元となるゲームが「ゲームセンター」や「パソコン」という聖地にあったからだ。移植作業という労働によって、お茶の間にやってきたゲーム様。その姿が聖地におわす「神」と近ければ近いほど有難みは増していくのである。

……

スーファミからGBAへリマスターされた『スーパーマリオワールド』『ヨッシーアイランド』『ゼルダの伝説 神々のトライフォース』など、一連の任天堂リマスター物件をプレイしてきて何となく感じていた有難みの薄さ、それは「スーパーファミコン」における「聖地」性の低さ(低いだけであってゼロではない)と関係しているのではないかと思った。そして、「スーファミん時とまるで同じなのにどうして新作みたいな扱い・値段で売ってんの?」という疑問も、「ものすごく面白い」せいで看過されがちだと思う。

……
そもそもスーファミに「聖地」性なんて本当にあるんだろうか。

「聖地」性ってのはものすごく鋭い視点だなあ。感服した。
社会学者とかがそのうちネタにしそうな感じ。(え、もうしてる?)

アーケードゲームというのはたしかに、ある種の不可侵なものだった。
アーケードゲーマーは、かつてそこに100円玉というお賽銭を入れ続けた。
そして、明らかにそれとは劣る「移植版」を買い、家でうれしさ半分悔しさ半分でプレイしていた。

「完全移植」への憧れや、大人になってから基板(や下手すると筐体)を買っちゃうような行為は、まさにその不可侵なものを我が手に、という感情の発露だったと思う。

対して、同じオリジナルとほぼ同一のはずの、エミュレータにはまったくありがたみがない。
それは無料で手に入ってしまうとか、カタチ(質量)がないとか、インターフェイスがいろいろ違うとか、いろいろな理由があるのだろうけど。

だけど、「完全移植」には、ハードの差異を克服しようとした、移植にあたったゲーム職人の魂を感じることができた。

「このハードでは、できない。」 チームは、ふたたび壁にぶつかった……

そして、それをなんとか解決するという、「プロジェクトX」の一シーンみたいなのを想像することができるのだ。
だからこそ我々は、その「驚異の移植度」に驚嘆したのではなかったか。

でも、SFCからGBAへの移植は違う。移植とさえ呼べるシロモノではない。
ただデータを移して、ちょっと手直しを加えただけ(のように見える)。
そこには職人の魂は感じられない。神は死んだ。るつぼゲームズは何処へ消えた。