三位一体

先日のゲーム学会の発表原稿(修論の前半部の一部をシングルカット&リミックスしたもの)http://www.intara.net/ron/shigeuchi-gas-200310.docに関して、許可が出たので井上明人さんからいただいたコメントから抜粋引用。

個人的には、AYSさんの脳・目・手モデルは、ざるの会のモデルとの対応関係が非常にきれいにまとめられ、また別の回路からの説明がなされている点は、面白いなあ、と思いましたが、それ以上はうーん、というところでしょうか。
 特に
  操作・いじる・手 ⇔ システム・意思決定・脳
 の差異というのは比較的、どの論者も出してくるモデルなので、ある程度、同意の得やすい部分だと思いますが、「見る・目」のあたりは一番どーかなー、と思ったりします。

あ、そうだったのか。

http://d.hatena.ne.jp/AYS/20031004

# AYS 『あの三要素を持ち出したのは、あまりにも「意思決定が(ビデオ)ゲームの本質」というのがあって、鑑賞も主要素として認識すべきだ、というような意図です。意思決定と操作を分離してみたかったというのもあります。』

# AYS 『意思決定と操作に関しては、井上さんや松谷さんから分けるのは無意味的なことを言われたので、今度改めて書きます』

と、書きましたが、じゃあ勘違いかも。さっきの引用にあるように、井上さんはむしろ「目・鑑賞」を問題視しているのか。
松谷創一郎さんのモデルは、http://spa.fusosha.co.jp/e-enter/011024.html#gameここの図などにみられるのですが、「インタラクション=TVゲーム性=命令→反応=入出力」とあるように、入力と出力だけでよい、とする議論です。

ざるの会はhttp://www008.upp.so-net.ne.jp/zaruo/zaru/backnumber/nyuumon/02-1.html#02-02で、私と同じようなことを(ずいぶん前に)書いているのですが、

ビデオゲームの「面白さ」は、大きく分けて「出力に由来する快感」と「意思決定の快感」に分けられる。(……)
 出力に由来する快感は、大きく分けて「見る」「いじる」「勝つ」の三つに分類される。
 そこで更に、「見る(受動性)」「いじる(能動性)」「勝つ(社会性)」の分類を縦軸(行)に、情報処理の程度の分類(知覚性/認知性)を横軸(桁)に表にすると以下のようなA〜Fの六種類に分けられる。

としていて、けっこうややこしい分類をしている。

映像の美しさとか、物語がよくできているなどという、従来の受動的メディアで重要だった要素が、ビデオゲームにおいてはどうでもいいことだというような論調をよく見かける。
これは、インタラクティブなメディアなんだから、非インタラクティブなメディアでも見られる要素は本質であるはずがない、という発想とか、あるいはビデオゲームの起源がボードゲームなどであり、それらの本質がビデオゲームの本質であるという発想からだろう。
よくビデオゲームソフトは、生物の進化系統樹に喩えられるが、この考えは間違いだと思う。生物の進化は、たったひとつの種が無数の種に分裂していくさまだが、ビデオゲームはヒギンボーサムのTennis for twoとかPongとかから無数に分かれたわけではなく、ボードゲームやカードゲームや映画やら小説やらいろいろな既存ゲーム・メディアを母体に生まれたものだからだ。

そういうわけで、本質はひとつではなく、ビデオゲームインタラクティブという現象は6つのプロセスに分けられて、それは対称構造を持っているので、要素としては3つに分割できる、というのが私の考え。
余談だが、6つのプロセスに関しては、クリス・クロフォードもたまたま(左右反転しているが)私と同じ図を描いている。


(Chris Crawford 2003 THE ART OF INTERACTIVE DESIGN pp.255)

クロフォードはEyeball,Brain,Hands,Monitor,CPU,Keyboard and Mouseという用語を使っていて、私の呼称と偶然にも一致している(パソコンのインタフェースの本なので、コントローラーは違う。もともと英語だとcontrollerとは言わなそうだが)。

で、このプロセスを元に、本質的要素を3つだとしたのが私ということになる。鑑賞に関しては、さきほど触れたが、では入力・出力の2つにすると出力に収斂されてしまう意思決定と操作を分けたのはなぜか。

わかりやすい例を挙げよう。『アウターワールド』の冒頭シーンを思い出してみたまえ。http://homepage2.nifty.com/momiten/game/oworld/outer2.htm
謎の獣が襲ってくる! 即死亡だ。何度か死んでいると、左に走逃げればとりあえず死なないのがわかる。でも行き止まりでやっぱり死亡だ。しかしツタがあり、それにジャンプでつかまればいいのだとわかる。ツタにつかまっても、すぐに切れてまた死ぬ。そこで今度は右に走ればいいのだとわかる(以下略)。
ここで、「左に走る→ジャンプしてツタにつかまって獣をやりすごす→今度は右に走る」という解法プロセスを理解する、これが意思決定の領域である。
だが、このゲームはアクションゲームなので、やり方はわかっても、タイミングよくうまく操作しないとクリアできない。こちらは操作の領域である。
つまり、解法はわかっても、タイミングが難しくてクリアできないという状況がある。ほとんどのアクション性のあるゲームではこれは日常茶飯事である。『ゼルダの伝説』のボス戦などが好例だ。……あ、こっちを例に出せばよかったのか。
この二つの要素は、やはり分離して考えるべきだと思う。いわゆる頭の良さと、手先の器用さの要素の違いである。
これが私が両者を分けて考える所以である。


「鑑賞の要素にもっとも力点が置かれる場合が多いゲームジャンルの例は,アドベンチャーゲームロールプレイングゲームである.」
「意思決定の要素にもっとも力点が置かれる場合が多いゲームジャンルの例は,(strategy gameという意味での)シミュレーションゲームボードゲーム,パズルゲームである.」
「操作の要素にもっとも力点が置かれる場合が多いゲームジャンルの例は,アクションゲーム,シューティングゲームである.」と発表資料に書いたが、これらは現状をおおざっぱに見た場合であって、元々AVGRPGは意思決定のゲームであった。
初期のビデオゲームが鑑賞の要素が薄かったのは、単にハード的な制約から表現力が不足していたためである。しかし、スーパーファミコンがきれいな映像が出るファミコンだったり、PS以降3DCGの表現力(だけ)が飛躍的に進歩してしまったのは周知の通り。元々一番要素として弱かった鑑賞の要素(表現力)が、急に技術的な理由から一人歩きするようになった。その受け皿として都合の良いシステムを持っていたのが、RPGであった。
そして一方、低コストで物語を語れる構造を有していたAVGが、サウンドノベルビジュアルノベルとして特化されていった。

RPGは、AVG的物語(鑑賞)と、SLG的戦闘(意思決定)を有する、ビデオゲームの諸要素の集大成的な側面を持っていたことに加え、物語で引っ張ることで意思決定や操作に起因する難易度上昇の発生を抑制し、万人受けできるバランスを獲得してもっとも人気のがあるゲームジャンルとなっていた。人気ジャンルだから、技術の成果を投入でき、また物語が重要な要素となっていたため、表現力を生かす必然性があった。
また、RPGは時間単位でシステムが変わるシステムであった。ドラクエ式のゲームは、移動と戦闘では完全にシステムが異なり、それが時間によってキッチリ分割されていた。CGムービーは必然的に操作不能の時間を生み出す。元々時間分割をシステムの根幹としていたRPGは、それなりに無理なく入れられたという側面もあったのかもしれない。

実際は、もっともゲームシステムがシンプルだったレースゲームが3DCG技術の見本市になったり、シューティングゲームではしばしば操作の要素と無関係に背景で展開される演出が重要だったりしたのだが。やはり一見して魅力的に映るのは、鑑賞の要素だからだ。

4日のコメントhttp://d.hatena.ne.jp/AYS/20031004から。

# h_tanaka 『ビデオゲームを研究の対象としたとき、AYSさまが主張されるような部分が十分認識されていなかったことは良く分かりました。私としては、その事による何らかのデメリットが明確であると、鑑賞を主要素に置くべきであるという意識がより広まりやすいのではないかと思います。』

# h_tanaka 『例えば、ビデオゲーム側から見ると、鑑賞・意思決定・操作は制作上のトレードオフになっていると思うんですよね。鑑賞に注力したビデオゲームを作ると、大部分のゲームでは操作と意思決定への注力が削がれます(流麗なグラフィックがコンピュータのリソースを占有するから)。また、操作に注力したゲームを作ると、鑑賞や意思決定への注力が削がれます(反射神経を要求されるビデオゲームを作るには、より簡素なグラフィックやアルゴリズムが求められるから)。』

# h_tanaka 『では、それらは両立し得ないかというとそうではない。AYSさまの資料を読んでいて真っ先に思い出したのは「スーパーマリオ64」です。あれは鑑賞と意思決定と操作のバランスが絶妙だった。私の狭い知識の中で、あれ以上のバランスが取れたビデオゲームはないですね。』

FC・SFCの『スーパーマリオ』は、操作の要素がほとんどのゲームだったと思います(出現当初は美しい画面と言われたので、鑑賞の要素も見過ごせませんが)。しかし、64というハードウェア(技術の進歩)を得て表現力(鑑賞の要素)が、そしてゼルダ的なパズルを導入して意思決定の要素も取り込みました。そういう意味では、おっしゃる通りかもしれませんね。

3要素のバランスがとれたゲームがもっとも素晴らしいかどうかはまだなんともいえません。どれかひとつが突出していればそれでいいような気もしますし。

# h_tanaka 『私は、ビデオゲームは未だに鑑賞が「従」であり「主」足りえていないと感じます。鑑賞に注力しただけのビデオゲームを作ると、ビデオゲーム行為から意思決定や操作の要素が抜け落ち、結果として貧弱なビデオゲームと評価されますが、ビデオゲーム画面が貧弱なだけでは、ビデオゲームとしての評価が落ちるとは限らないからです(確か、音だけのゲームってなかったでしたっけ?)。』

# h_tanaka 『ビデオゲーム行為の中に「鑑賞」を本質的に捕らえるための第一ステップとしては、まず制作側・研究側から、上記の問題を打破する提案がなされて欲しいと思います。』

サウンドノベルビジュアルノベルは鑑賞の要素に注力していると思いますが、支持されているものが少なくありません。『FF』も何かと叩かれてはいますが、売上をみればビジュアルに凝ったのは成功だったといえるでしょう。
画面がチープで、その他の要素がよくできているゲームは、評価される場合もありますが、売上的に成功することは少ないと思います。



井上さんのコメントの、先ほどの続き。

 最近の僕の発想だと、
  狭義の「ゲーム」(システムとしてのゲーム)のモデルはある程度の操作的定義を用いての範囲設定の可能な領域かなー、と思うのですが、そのほかの部分はきわめてどろどろとしていて、厳密な定義を目指したとしてもどうやたって簡単に反証されてしまうようなモデル以外はどうも難しいんじゃないかと思ってます。

 そもそも、ハードウェア的な形式的な定義でごまかすのか(あるいは、言説のまとまりの特徴とかでごまかすか。)
 もっとドン・キホーテ的な目標を立てて人間が主観的に感じる「面白さ」の分類とかって話まですすめようとしてしまうのか、という違いを意識しなくちゃならないなー、というのが卒論後の反省でして、

 後者の、人間が主観的に感じる「面白さ」の分類論、とかみたいな主観的意識の問題を扱いはじめると、泥沼にしかならないという気がしているので、ここのところの分類をどうやって、ごまかすか。あるいはそもそも論じないで済ませる方法なりを見つけ出すか。(もちろん、比較的妥当な叩き台となるような分類軸ができれば、それに越したことはありせんが)
 というのは、ここ数ヶ月の私の冴えない現状といったところでしょうか。

とりあえず「鑑賞の要素も無視しないでほしい」「意思決定と操作を分けたい」という動機は達成したので、私は次にビデオゲームのルールを分類したい(間接的に面白さの分類になる??)と思っているのですが、なかなかとっかかりが……。