ジャケ違い

児玉さんの
http://web.sfc.keio.ac.jp/~codama/wiki/wiki.cgi?%C7%A4%C5%B7%C6%B2%A5%B2%A1%BC%A5%E0%A5%BB%A5%DF%A5%CA%A1%BC
という任天堂ゲームセミナーの企画書に、
井上さんがコメントしたらしく、
児玉さんが
http://web.sfc.keio.ac.jp/~codama/wiki/wiki.cgi?8%2F5%A4%CE%C6%FC%B5%AD%A4%C8%A5%B2%A1%BC%A5%E0%B4%EB%B2%E8%A4%D8%A4%CE%B0%E6%BE%E5%A4%B5%A4%F3%A4%CE%B0%D5%B8%AB%A4%D8%A4%CE%B2%F3%C5%FA
という回答をしているようだ。まだ全部読んでないが、読んだところからメモを。

上で最後に書いたURLの、児玉さんのコメントより。

コントローラというインターフェースによって
アニメーションとリアルタイムにインタラクトできる=触れることは
間違いなくゲーム特有の大きな魅力です。
ただそれは「気持ちいい物がある」という魅力に留まっています。
僕は、その触ることの快感、魅力に、行為の意味付けを加えたい。
(ここでは主語は自分にならざるを得ません)

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少女を救う、秩序と無秩序の思想を選択する、弁当を盗む、
こうした行為の意味付けを、
自らの能動的なプレイとして表現しながら、
単に行為し動かすだけでなく、他の物語表現で得られるような情感も与えたい。
そういう意味では、僕は「映画的ゲーム」の幻想を捨てきれずにいます。

能動的なゲームの特性と、受動的な他メディアの特性の話なんだと思うが、とりあえずこれを読んで私はまたメタファ(喩え)の問題のことを考えた。

題材はいわゆるゲーム性と分離されうる。

たとえば、あかずきんがおばあさんや森の人々に弁当を届けるゲームがあるとする。
あかずきんは一番左にある家を出発。途中には家が5軒ある。家に入りAボタンを押すと、あかずきんは彼らに弁当を届けることができる。全部の人々に届けて、一番右にあるおばあさんの家に入り、Aボタンを押すとおばあさんに弁当を届けてクリア。
(どうすれば失敗になるのかはこの話ではどうでもいいので考えない)

しかし、こんなゲームはどうか。

狼がおばあさんや森の人々を食ってしまうゲーム。
狼は一番左にある棲みかを出発。途中には家が5軒ある。家に入りAボタンを押すと、狼は彼らを食うことができる。全部の人々を食って、一番右にあるおばあさんの家に入り、Aボタンを押すとおばあさんを食ってクリア。

まったく操作。まったく同じゲーム性。だが、意味が違う。
(これは以前 http://d.hatena.ne.jp/AYS/20030726 CEROの話をしたときに、同じ映像でも違う操作感・ゲーム性の可能性がある、という話をしたのと逆の話だ)

私の2003/1/17の私メモ

ゲームシステムの議論と、「おはなし」の議論を分離したい。
設定とゲームシステムは表裏一体だったり、分割可能だったり。
たとえばずっと右に進むというゲームは、何かを取りに行くという設定にもなるし、何かから逃げているという設定にもなる。
マンガのゲーム化では、設定が先にあり、システムはそれに従属する。
逆に、システムを先に決めて、設定をそれに沿わせるものもある。

http://www.1101.com/nintendo/zelda/09.html

宮本 やっぱり、娯楽って幻想なんです。
いかに上手にだますか、なんですよ。
「四角い箱の上に物が乗った」
ということと、
「丸太に、マリオが飛びついた」
ということは、ほんとうは同じなんだけれど
そこにクリエイティブがあるわけですよ。
マリオが足が滑りそうになってグラついたり、
手でガシッとそこを掴んだりと、
遊んでいる人を突然ドーンと
驚かしたりする。
そこにクリエイティブがあるんです。
そういうふうなところで、
舞台監督の役割とか
色んな役割があるわけでしょ。