満ち足りた時間

児玉さん日記7/27
http://web.sfc.keio.ac.jp/~codama/wiki/wiki.cgi?2003%2F7%A1%A1%B8%E5%C8%BE

・ゲームとして
上の議論とも関連するが、触って気持ちいいインターフェースを実現すること、
そのためにはリアルタイム性は大きな魅力。
またスコアやステージの進展など、クリアするモチベーションをきちんと持たせなければ。
その意味でも、ストーリーやデザインの魅力は軽視されてはいけない。
信長の野望ダービースタリオンなど、スタティックなシステムのシミュレーションは、
世界観/対象物の魅力に多くを拠っている。
対極にある抽象ゲームの代表例としてのテトリスは、
リアルタイム性とスコアを最大限に活用してゲームを持続させている。
そのインセンティブを、現実の人間関係に持たせたのは面白かった。
デザインのやりようはもっとあるけど。
例えば名前の付かない雑草は育てるモチベーションが全く沸かなかった

なかなか興味深い指摘である。たしかに、テトリスと信長・三国志なんかを考えるとなるほどと思える。
これは7月29日付けのコメントで、私が静的なゲームである『ガンパレ』のいわゆる世界観やキャラクターに興味がないのでハマれなかった、という話とも繋がるような気がする。
もちろん、そもそも最初にそのゲームを選択するうえで、世界観やキャラクターデザインなどは重要なので、どういうゲームでもある程度は必要だろうが。(たとえば『ぷよぷよ』はキャラクターがかわいいからやる層とか)


リアルタイムで、とにかく考えたり解釈したりする時間が与えられず、目の前に流れてきた部品をどんどん組み立てないといけないような状況では、組み立てている対象に対する興味などはあまり問題とされない、というのはあるだろう。

心理学の用語で「注意資源」というものがある(この概念の存在はともかく、感覚的には誰でも知っていることだ)。ここから説明を借りると、
http://www.page.sannet.ne.jp/tuyoshi-i/Ninti-7.htm

注意資源
〜処理の自動性〜
車を運転し出した初心者の人は、かなり運転に気がいっていて、
助手席の人と会話をすることもできないくらいでしょうが、そのうち、
慣れてきて会話もできるし、ヒゲもそれたりもできるくらいになるでしょう。
これは、運転初心者は運転に注意資源がかなりの量必要で、熟練者になると
必要な注意資源の量が少なくてすむからと考えられます。
ある処理を何回もすれば、つまりいろんな行動に慣れてくれば、その処理に
必要となる注意資源が減少し、ついに注意がまったく必要とはしなくなる状態
まで到達する可能性が考えられます。このような、注意を必要としない
処理過程を自動的処理と呼ばれます。

ということだ。
「資源」と日本語で表現するとあまりピンとこないが、「リソース」といえばパソコンの処理の比喩で理解しやすいと思う。

静的なゲームの場合、制限時間が無限なので、プレイヤーはこの注意資源を(飽きるまで)無限に使用できる。
対して、動的なゲームの場合、制限時間があるためにこの注意資源の大部分がその処理のために利用されてしまい、それ以外のシナリオや設定などを解釈・吟味するために利用できる注意資源が減る。
だから、静的なゲームはより世界観・キャラクター・シナリオなどが重要となってくるともいえる。

あるいは、世界観の設計やキャラクターのデザインは、注意資源の消費量を左右する。
敵は撃っていいが味方は撃ってはいけないゲームがよくあるが、敵と味方のデザインが似ていればその識別に多量の注意資源が必要となるが、その逆なら必要量は少なくなる。この辺でもバランスを調節することが可能だ。


思いつくままに書いているので話が錯綜していて申し訳ないが、こういう話もある。
一般に情報密度を高めた方が面白く感じる。(もちろん限度はある)
サウンドノベルで、読みたくもないテキストを飛ばし読みしているときは退屈だ。
RPGで、戦いたくないのにエンカウントしまくってAボタンを連打しているような状況は、戦闘という情報にプレイヤーは密度を感じないので、やはり退屈だ。
その点、『FF4』で導入され『FF5』『FF6』で完成を見せたアクティブ・タイム・バトル(ATB)はプレイヤーに選択を迫るスパンを短くして、しかもそれに実質時間制限を持たせたことで、この密度を高め、退屈させづらい試みとして上手かった。
これは本来静的だったRPGの戦闘にリアルタイム性を持たせて面白くした好例といえる。(RTSも、静的なSLGにリアルタイム性を持たせて面白くした例ということもできるだろう)

情報密度を上げれば上げるほど、集中力が必要となり、一般に面白く感じるようになる。
ストリートファイターII’ターボ』のように、基本的にスピードを上げただけで、(旧作品を体験したプレイヤーにとっては)旧作品よりも、より面白い新製品となりえたのは、スピードを上げることによって情報密度が高まるからだといえる。
メイド・イン・ワリオ』でも先に進むたびにスピードアップしていくが、基本的にはこれと同じゲームデザイン文法である。

首領蜂大往生』などに見られるシューティングゲーム弾幕とかは、情報の高密度化がいきつくところまでいきついたというか、いきすぎた感じ。だが、シューティングマニアにはそれがたまらないようだ。

エースコンバット04』の無線の音声・字幕などは、基本的に攻略の上では無視してよい存在であり、しかし無視しようとしても意識の端に刺激を与えるので、その点演出としてはものすごく上手いと思う。
ゲームプレイそのものの密度を上げるのではなく、その周辺情報の密度を上げるというのは、結果的にゲーム体験の密度を上げる効果をもたらす。グラフィックがきれいになるとか、キャラクターのモーションが細かくなるというのも基本的にこれだ。

情報密度といえば、

野安さん
http://plaza18.mbn.or.jp/~noyasu/nikki/newdiary.htm

●7月27日(日)
……
「F-ZERO GX」(任天堂/GC)は、マシンの操作が「物凄く軽い」感覚があって、ほとんど重力とか慣性を感じさせません。なるほど、ここらへんがセガのテイストなのかもしれませんね。胃がキリキリするようなストイックさは薄めて、ただし成功すると気持ちいい、とゆー感覚だけを残すことを目指しているといいますか。

ただ、「カービィのエアライド」(任天堂/GC)ともども、画面上の情報が多すぎて、ちょっと目が疲れるなぁ。もっと背景から情報量を削ってほしいのですが。背景はもっと「雑でいい」し、さらに極度な空気遠近法が使われてもいいと思ったりしますが、こーゆーのって実際にやってみると変になっちゃうのかな?
●7月28日(月)
昨日の続き。背景がたっぷりと描き込まれていて、なおかつ反射神経を要するゲームは、「背景OFFモード」をつけてくれると、ちょっと嬉しいと思った。背景は黒一色でもいいよ。

という話が。
そういえば、サターンの『バーチャ2』の発売がアナウンスされたとき、たしか新宿ジャッキーだったかブンブン丸だったか、とにかくファミ通のバーチャ好き編集者が、ファミ通誌上で「背景なんか真っ黒でもいいからモーションとかゲーム性を完璧に移植して欲しい」というようなことを書いていたような気がする。
背景が「真っ黒でもいい」というのはいくらなんでも極論しすぎ。世界観の調和がとれなくて、自然な情景に見えず、逆に注意資源処理に支障をきたす可能性があると思う。
そういえば、宮本茂氏は、スーパーマリオに関して、「それまで任天堂のゲームは子どもたちの目に優しくするために黒バックにしてきたけど、それでは地味すぎるといわれていたので、スーパーマリオでは青空から始まるようにした」という旨の発言を最近どこかでしてた気がする。いや、思い出しただけだけど。