自分で考えろ

http://d.hatena.ne.jp/ityou/20040325

 こう考えてみると、好きになることとそれに飽きることとは一体のものである。体系全体を知り検証しつくすまで読むようでは、そもそもそれを読む意義が怪しまれる。乱暴に言えば、何かを好きになってそれについての情報を集めている時、人間がしているのは、早くそれについて十分知り、理解しようという努力であり、それはそれに早く飽きようという努力だ。熱中するというのは一時的に学習投資を集中することであり、なぜそうしなければならないかというと、あまりに重要なので素早く身につけたほうがよいからだ。

読書百遍義おのずからあらわる。
「好きになる」「飽きる」という議論は逆説的で面白いが、だが「飽きる」の意味を(意図的に?)混同している。
Xについて学習する場合、好きになる対象はXだが、学習が終わるとXそれ自体に飽きるのではない。Xを学習することに飽きるのである。
今度はXを応用していくというプロセスが始まる。(もしくはすでに並行して始まっている)
Xを応用し続けていく限り、Xそのものについて飽きたとはいえない。

 話を戻す。人間はそうやって毎年毎月毎週、読み聞くことで、信頼できる他人の公理体系を増やしていく。この手法を好まないで黙々と自前の視界を広げていくのが哲学で、いきなり大量の下駄をひとつところに預けてしまうのが盲信だ。

と、私も思うのだが、日本の哲学者で「誰々の何々論」というのをあまり聞かない。なんかたいてい「ヘーゲル研究の権威」みたいに、欧米の哲学者にすんごい詳しい人という感じ。
何を言うにも欧米の哲学者の説をあてはめてる人が多い気がする。思考することを生業にしてる人々なのに、根本的なところでは人のふんどしで相撲をとっているように見える。若い頃に十分格闘して下駄を預けるに足ると判断したからいいのかな。