1/60秒の夢旅人

前日でのみはえるさんとの定食屋での会話で、MMORPGに話題が及んだ。
MMORPGの「ゲーム」と「チャット」、どっちが本体なのかという話。

プレイヤーの入力に対して、ビデオゲームは何らかの反応を返すわけだが、その反応をたくさん・細かく作ると制作にかかるコストが膨大になる。かといって反応の種類が少ないと退屈になる。
反応の自動生成やプレイヤーの誘導のような工夫をいかにして、ユーザーを飽きさせないゲームを作るかというのがゲームデザイン上の課題である。
ところが、その反応を他のプレイヤーにやらせてしまおうという手がある。

対戦格闘ゲームがその典型である。オンラインRPGもそう。
チューリングテストでは、コンピュータがいかにして人間の代わりを演じられるか、というのが課題だったわけだが、この手のゲームでは、逆にプレイヤーがコンピュータの代わりをしているわけである。いわば逆チューリングテスト状態である。
語弊を恐れずに言えば、気の合う仲間どうしなら、何をやっても楽しいのである。ゲームが楽しさをそれほど提供しなくても、仲間どうしの楽しさがそれを誤魔化すことができる。
楽しみのための囲碁・将棋・麻雀・トランプ・ボードゲームや、対戦スポーツなどはそういうものだ。それのビデオゲーム化ももちろんがある。
ビデオゲームはルールと他プレイヤーを演じ、独立して一人遊びツールとしてプレイヤーを楽しませることができるところが素晴らしい。その意味では、楽しさの出所がゲームそのものではなく、他プレイヤーであるゲームは、手抜きといえるのである。

任天堂は最近、コネクティビティとか言って、4人プレイものを続々出している。
もちろん、それはそれでありだし、プレイヤー同士の楽しさを生み出すきっかけを与え、それを加速させるゲームは素晴らしい。SCEがほとんどやってないことをやっているのもいい。この蓄積は将来ビデオゲームの発展に確実に寄与するであろう。
でも、天下の任天堂も、もう他のプレイヤーの力を借りなきゃ楽しさをプレイヤーに提供できなくなってきているような気がして、任天堂ファンとしては寂しく思う。

さて、MMORPGでは、やはり無限の反応を引き出し相互に楽しませる、プレイヤー間のチャットが楽しい。では、チャットだけあればOKなのかというと、必ずしもそうでもない。
水曜どうでしょう』というテレビ番組がある。タレント2人とディレクター2人が旅をする、現代版『東海道中膝栗毛』なのだが、普通の旅番組と違うところは、基本的にただ移動するだけで、移動の最中に4人の間で交わされる愚にもつかない馬鹿話を楽しむところがどちらかといえばメインなのだ。
では、スタジオで4人が馬鹿話をしていればいいのかというと、そうではない。
馬鹿話が始まるきっかけは旅の過程で目にしたものであったり、旅につきもののハプニングであったりするのだ。
旅は馬鹿話を引き出すために不可欠なきっかけであり、馬鹿話あってこそ成立する旅なのである。『どうでしょう』における馬鹿話と旅は車輪の両輪なのである。
MMORPGもそうだ。MMORPGの旅や戦闘といったゲームシステムとチャットも、同じ関係なのである。
戦闘やクエストの達成などといった目的が、複数プレイヤーがそこに同居する動機を生み出す。そして、たとえば戦闘のちょっとしたハプニングが、会話の動機を生み出す。それが楽しいから、戦闘やクエストという課題に長時間取り組むことができる。そんなループを形成するゲームデザインである。
そんないい意味での馴れ合いが、たとえば現在のMMORPGなのだと思う。
(と、言いつつほとんどMMOPRGをやったことがないので、憶測です。すいません。もちろんチャットが嫌いな人もいるし、レベル上げにのみ楽しみを見出している人など、色々でしょうけど)