面白いと感じられない不幸

面白い作品とは何か。
1.自分が面白いと思った作品。
2.大勢の他人が面白いと言っている作品。

この2者が一致していれば、幸せでいられる。
そうでなければ、ちょっと面倒だ。

なぜなら、他人と仲良くしなければならないからだ。

だから、「面白さがわからない」というのは、けっこうな悩みだ。
1.自分がつまらないと思った
2.大勢の他人もつまらないと思った
と、一致していれば、いっしょに悪口を言っていればいいので楽だ。
だけど、逆の評価になるとつらい。

「私はこの作品を面白いとは思わなかった」というのは事実で、それを短く言うと「この作品はつまらなかった」となるが、それはその作品の絶対的な評価のように聞こえ、その作品を面白かった人にケンカを売っているようになってしまう。
このケンカを防ぐには、口をつぐむのが一番良い、ということになる。


もうひとつの悩みは、世間の感覚と自分がズレているという事実だ。
レオナルド・ダ・ヴィンチの絵より、素人のおっさんが描いた絵の方が好きだと思っても、センスのない人間だと思われるので、素直にそうは言いづらい。

クリエイターの人や、批評家をしている人は、その感覚のズレはしばしば致命傷になる。
作家は、他人が面白いと思うものを作れないし、批評家の場合は、「この映画はつまらん。駄作だ」とか言っていた作品が、その後大ブームとなったり、アカデミー賞を取ったりしたら、見識を疑われ、発言を信用してもらえなくなる。


告白すると、たとえば私は、「スターウォーズ」シリーズの面白さがほとんどわからない。「NANA」の面白さもさっぱりわからない。
だからといって、「これらの作品はつまらん」とか言うと、センスを疑われるので、黙っているか、「私はあまり好きな作品ではない」と言ってごまかしたりする。
(「NANA」の場合は女性向けということもあって、素直に「面白さがまったくわからない」とか言ってしまうけど)

でも、「スターウォーズ」と「NANA」が世間では評価が高いことを私は知っている。
だから、新しい作品について何か言う場合、同様のズレによって生じる問題をできるだけ避けるために、自分のブログなどに感想を書く前に、とりあえずブログ検索などで世間の顔色を伺ってから、主観評価に関する表現を多少修正して書いたりもする。まったくチキンである。(さすがに評価を180度変えたりはしないけれども)


あるいは、単にまだ自分が面白さのツボを理解していない場合もあるので注意が必要だ。
たとえば「ゼルダの伝説」を謎解きゲームとして遊べば面白いという場合でも、そういうゲームだと理解しておらず、敵と戦うゲームだと思い込んでいたら、全然先に進めなくてつまらないという感想になってしまう。
これは、一度そういう評価をしてしまった後で、本当の楽み方を知ると、過去の自分が愚かのようで辛い。(本当は作品の面白さを伝えられなかった作品自体の問題であったりもするのだけれども)


また、おいしい料理ばかり食べていると舌が肥えてきて、ちょっとやそっとのおいしさでは満足しなくなるという問題もある。
映画やマンガやゲームでも、面白いものばかりやっていると、似たような面白さの作品は「それはもう味わったことがある」ということで、あまり面白くなくなってしまう。
だんだん、面白いと感じられるレンジは狭くなっていってしまうのだ。
困ったものだ。


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