detect them all

土日は「時代のアイコン展」http://www.matsuya.com/ginza/art/jidai/wd.htmlに行きたかったのだが、天気が悪いので断念。6日間だけの開催って何だそれは。
仕方がないので家でおとなしく、久々にネットをのんびり見たり昼寝したりしていた。

あまりサイトをチェックする時間がないので、たかなべさんのサイトで紹介されているのをよく見ている。
http://d.hatena.ne.jp/takanabe/20040904

今日はそんなわけで話題に乏しい日なので、「ラヴフール」の子ページであるところの「ラヴゲーム」がほめられて、それを僕が見つけて、その後のやり取りなどを含めたこのページでもみていてください。ゲームとゲームを取り巻く言葉は楽しいほうがいいね、と初心に帰ったしだいでございます。
http://ggggg.jugem.jp/?eid=10#comments

というのを、今日はふむふむと読んでいたら、そのさらに参照元ページが載っていた。
http://ab.txt-nifty.com/ab/2004/08/post_1.html

ゲームの批評と「匠の目」
■ジャーナリストの視点から見るゲーム業界の裏側
 ライターや市井の識者たちの中にもいろいろなタイプがいて、分析力の高い人、文章がもの凄く上手い人、やたら事情通な人など様々だ。ただ、その中でも特に際立った文章を書く人たちの中には、ある共通した特徴があるように思う。
 それは、キーとなる要素を軸にしてゲームを読み解く、「一点突破能力」とでも言うべきものだ。分析力が高い人ならそのゲームの面白さ、斬新さのコアとなる部分をズバリと指摘し、それを元にゲームを分解して行くし、着眼点や洞察力が優れている人ならそのゲームを見る上で思いも寄らなかった視点を提示してくれる。その手法で書かれた文章は主題がはっきりしていて内容がブレず、また文章量も少なくて簡潔にまとまっている事が多い。
 例を挙げると、自分的に大ファンであるライターの多根清史氏の書く”批評文”(「コンティニュー」のレビューとかはまた別)には一定のパターンがある。ゲーム批評最新号(Vol.58)に載っている「マリオvsドンキーコング」の記事を参考にすると、

(起)最近流行っているタレントや芸人のコンビ再結成に関する分析
→書き出しは豊富なサブカル系の知識を元に一見ゲームとは関係ないネタを振っておく。

(承)同作はマリオとドンキーコングが敵味方という関係を解消して袂を分かった後、人気の凋落に伴いGBAでコンビを再結成したリメイク作品であり、うらぶれた印象は拭えない
→そのネタと題材のゲームを絡めて、そのゲームを読み解く視点を固定。

(転)64以降の3D化により、ミスに関するルールが変更され違う存在へと変化したマリオとドンキーコングを、再び落下一発死というフィールドに引き戻した事への違和感
→今までの文章の流れをいったん切って、具体的な部分に言及。

(結)世代による「マリオ像」「ドンキーコング像」の変遷。一体誰にとって懐かしい作品なのか。リメイク作品の難しさと、任天堂らしからぬ無造作な「コンビ再結成」であった事の悲しさ

→具体的な事例を受けて前半の流れと統合、締めくくり。
 と、おおまかにこういう内容になっている。元記事と併せて読んでもらうのが一番なのだが、視点がユニークかつ主題がはっきりとしていて、説得力のある文章にまとまっている。

多根さんはほとんど唯一、看板に偽りがない「ゲーム批評」を書こうと取り組んでおられる方だもんなあ。それでいて、オモシロ文章も書けるという。すごい。
他と違って、ただのスペック評価でもないし、一方どっかから借りてきた生半可な学術用語みたいな、一見それっぽい胡散臭いキーワードを引用してきてゲームを語ったフリをしているものでもない。

で、さらにふむふむと読んでいたら、過去に自分が書いた文章が紹介されていて誉められていてびっくりした。

もうひとつ、よくここでも参照させて頂いている「GAMIAN」(http://www.intara.net/og/)の記事。

コマンド──「ヤス」という発明 ポートピア連続殺人事件(1)
http://www.intara.net/og/portpia.shtml
なにか とれ・ふく──最後の命令 ポートピア連続殺人事件(2)
http://www.intara.net/og/portpia2.shtml

 こちらはまさに正面突破の構造批評なのだが、ゲームのコアとなる要素を的確に抽出して分析しているため、たったこれだけの文章量で驚くべき説得力を持っている。文章は簡素だが、この結論へと至るには膨大な知識を下地にした考察の変遷があった事は想像に難くない。

 面白い文章、読ませる批評文というのは様々なパターンがあって、いちいち納得しながら読む必要はない。しかし、やはり読むのなら、ミステリで名探偵が鮮やかにトリックを解き明かすような、そんなカタルシスを感じられる文章を読みたい。あるいはそのゲームの中心にある原理、結晶のようにシンプルな答えであり、鍵でもあるそれをもって、自分でもゲームという構造物を読み解きたいという欲求はある。

とまあ、すごくうれしいことが書いてあったわけである。
けっこうワンパターン化してしまってていかんなと思ってはいるのだが、私のコラムのパターンで多いのは、


冒頭の読者への謎かけ(あるいは意味不明な話)

取り上げるゲームの歴史的経緯とか状況とか

本稿の核心

忘れた頃に冒頭の話の答えを与えて終わり

というものだ。
指摘された通り、「ミステリで名探偵が鮮やかにトリックを解き明かすような、そんなカタルシスを感じられる文章」を狙ってのことである。
最初は狙ったわけではなく、特に構成は考えずになんとなく書いたらそうなっただけではあるが。
狙った、一点突破に関しては、http://d.hatena.ne.jp/AYS/20030810で書いたが。
たぶんこの辺のテクニックは予備校生時代、小論文を書く勉強を個人的にちょっとやったから身についたんではないかと思う。

以前http://d.hatena.ne.jp/ityou/20040710id:ityouさんと電話で話したときに言語化できたのだが、ゲームとか映画とかに関して、他人と違う、面白いと思ってもらえるような文章を書こうとするには、たとえばふたつの方法がある気がする。

  • 誰でも知っている題材に関して、誰も聞いたことがないような切り口で語る
  • 誰も聞いたことがないような題材に関して、普通の切り口で語る

後者はたとえば誰も知らないクソゲー紹介とかである。
「誰も聞いたことがないような」というパートで面白さが生まれる。

  • 誰でも知っている題材に関して、普通の切り口で語る

というのは誰でもできることであり、実際ネットにはこの手の文章が一番多いが、あまり面白くない。

一方、

  • 誰も聞いたことがないような題材に関して、誰も聞いたことがないような切り口で語る

と、誰もわからない話になるので面白くないのである。

私がよく過去のゲームを話題にして、最近のゲームを話題にすることが少ないのは、単に最近のゲームをやってないとか、最近のゲームは似たり寄ったりで語る余地が少ないとか、最近のゲームはまだ評価が固まっていないのでそこから問題にする必要があるので面倒くさいとか、いろいろ理由はある。
だが、一番の理由は、過去のゲームの方が、「誰も聞いたことがないような切り口」かどうかが書く前にわかるということだ。
他人がそのゲームをどう語ったかをあらかじめ見ているので、それを避ければよいのである。遅出しジャンケンである。つまりズルい。
どういうタイミングで何に関して書いてもOKなウェブだからこそできることである。

が、ここ数ヶ月は仕事に追われて完全に家には寝に帰るだけの生活で、ぜんぜん文章を書かないどころか、ゲームをまともにやってすらいないし、ゲームについて考えてもいない。
休日は退屈な日常からの逃避のために展覧会めぐりをするだけ。この日記も最初は思考メモのつもりだったのだが、最近ではすっかり展覧会めぐり日記になってるし。
このままではいかんので、近々生活を変える予定。



それにしてもこのabさんのサイトは初めて拝見したのだが、「わかっている方」なのだなあ。過去ログをちゃんと読みたいところ。
ざっとスクロールした中で見つけた中では、この辺の指摘が面白かった。
http://ab.txt-nifty.com/ab/2004/07/index.html

 例えば、「悪魔城ドラキュラ」のミソである鞭アクションの快感というのは、ボタンを押してからワンテンポ遅れて発生する攻撃判定<と、X軸をずらして接近してくるコウモリに代表される敵アルゴリズムが、空中制御の効かない固定軌道ジャンプと絶妙のバランスで噛み合っている所から生まれている。ボタンを押すタイミングの微妙なズレが攻撃の重さを表現しているというのが、このゲームの快感の秘密だ。

 これは、床ブロックに接触判定が出来るのが上方向からのみであるとか、一部の敵や攻撃が地形を無視して接近してくるという所に依存する部分も大きいのだが、何故そうなっているかというと、余計な部分の当たり判定を抜いてメモリを軽くしようという試みの副産物なのではないか、と推測できる。

 余計なグラフィックパターンは入れ込めないので均一なブロックで構成されたようなマップ構成が多くなり、しかしそれを逆手にとって「迷宮寺院ダババ」のような傑作が誕生したりもした。こういった制約をプラスに転じる鮮やかな発想こそが、ゲームという工芸品の持つ美しさの根元を成している、と個人的には考える。

私が初代『ドラキュラ』を好きになりきれない部分はまさにここであるが、かといってメトロイド化したPS版『ドラキュラX』もなんか違うだろ、と思う理由もたぶんこの辺なんだろう。
この辺が好きな人がいるだろうことはよくわかる。