誤解は愉快の母*1

(前日の続き)
id:fs_gohho:20040306#1078574014

例えば、件のシーンはミステリ慣れしてる人向けのヒッカケでありますが、初めてミステリを読む読者などにはどう映るのか。翻訳してバーレーン人に読ませたらどう映るのか。経験値や文化圏の違いによって、作者と読者の手続きがうまく機能しなくなるようなケースの構造はどうなっているのか。
もっと単純に「別冊宝島 マンガの読み方」みたいな仕事ですとか。
あるいは先日リストアップしたような「作者のいない作品」「意図のない作品」をどう読むかといった問題ですとか。
そんな方向に思考をスライドさせていくと、なかなか楽しめるのではと思うのですが、どうでしょう。
もちろん上記のことは、作品単体を批評するにあたっては気にする必要性の薄い問題であるわけですが。

そういう問題にするならそれは面白いです。でも、おっしゃるように、それはその作品を批評することとは違ってしまう(広い意味では批評になるんでしょうが)。また、作者についての批評することとも違う。
メディアの文法そのものとか、メディアの受容のあり方について考えることですよね。

その『別冊宝島EX マンガの読み方』(宝島社 1995 絶版)はマンガというメディアの文法を解析しようとした先駆的研究のひとつです。
たとえば同書p.205夏目房之介「マンガ文法におけるコマの法則」図19では、マンガの見開きを4象限に分け、

(右上) 導入 進む、出る、闘う、目指す、遠くへ、遠ざかる、冒険、外部
(右下) 戻る、入る、逃げる、散ずる、近づく、休息、緩慢、弱まる、内部
(左上) 上昇、開放、解放、明るさ、軽さ、空、薄さ、発展
(左下) 下降、圧縮、束縛、暗さ、重さ、濃さ、密、停滞、澱み

などと書いています。(抜粋。実際は図であって、「右上」などの表記はありません)
「なお、図19についてはW・カンディンスキー『点・線・面 抽象芸術の基礎』(西田秀穂訳 美術出版社 '59年刊)の「基礎平面」の項などを参考にした。」とあります。
これらがどのぐらい科学的根拠があると証明されているのか、私は不勉強なので知りません。が、ほぼ経験則ではないかと想像します。個人的にはなんとなく同意できるものもあるし、それはどうかというのもあります。それはとりあえず置いておくとして。
あるマンガの、左上に位置する1コマを論じたいとする。で、たとえば

見開き左上は開放・解放などを現す。まさに親の束縛から解き放たれた主人公の表情を描写するコマが、この位置にあるのは素晴らしい効果を生んでいる。

とか書くとしますよね(最初の一文の根拠が不明なので多少うさんくさいですが)。
作者の計算だと確信して、なおかつ作者について何らかのジャッジをしたいなら、「さすが作者は上手い」と書いてもいいんですが、作品それ自体について書くなら別になくてもいいと思う。そういう効果があることが批評読者にも納得してもらえるなら、それはそれで事実です。作者が意図したのかは事実かどうか不明ですので。
で、「素晴らしい効果を生んでいる」からどうしたのか。そのコマが作品のハイライト中のハイライトなら、「それによって作品は素晴らしいものとなった」とか「作品の素晴らしさを象徴している。この作品は素晴らしい」なんて結論に直結できます。
でもこの結論だと、直結すぎで結論で別に新しいこと言ってないんですよね。結論も「素晴らしい」といういいか悪いかという尺度のジャッジだし。できればもうひとひねりほしいところ。

えーと、何の話だっけ。あ、思い出しました。で、左上にそのコマを書いたのが作者の意図かどうかを追求するのが常に意味を持つのか。意図かどうかを問題にするなら、次の3パターンが考えられます。

  1. あらかじめそのような計算のもと、意識的に作者はそう描いた。
  2. そのような効果を生むよう、無意識的に作者はそう描いた。
  3. 作者はまったくそんなことを考えていない。ただの偶然。

3だと、作者に「そのような効果が出ているか?」と聞いても「わからない」と答えるかもしれない。
いずれの場合でも、少なくともそのコマが読者に与える現象は同じです。
この3つのいずれなのかは、完全に立証することはかなり難しいでしょう。まあ意図的かどうかは、作者に聞くか(証言はあてになりませんが)、状況証拠で検証できなくはない。計算高い構成をする作者と、感性でやる作者はいます。たとえば浦沢直樹計算高いんじゃないかとか。
他のシーンでも必ず同様にやっているなら、3ということはないでしょう。で、作品自体がロジカルな印象を与えるのか、それとも感性で読ませるタイプの作品なのかで、1か2かを見分ける判断材料にはなります。
でも、そんなことを一生懸命考えても意味があるのかというと疑問です。

BSマンガ夜話』の『ナニワ金融道』の回だったと思いますが、出演者のどなたかが、作中人物の服の模様について、

高い服は縫い目で柄が繋がっているが、安い服は縫い目で柄がずれてる。この作品でも、金持ちが着る服と貧乏人が着る服ではちゃんとそれが区別して描かれている。

というような指摘をしていた記憶がある。(都合により、ここから文が常体になります)
が、ネットで感想を見たら、その指摘は勇み足ではないかというような議論があったような気がする。
……検索してみたら、あった。(よく覚えてたな自分)

http://comic.2ch.net/csaloon/kako/1026/10269/1026920789.html

127 名前: マロン名無しさん 投稿日: 02/08/03 16:59 id:WrkKwfRM
ナニ金の高山部長だけどさ、スーツの柄がつながっていないのは
ツルシしか買えないっていう設定だからわざとそう書いてあるんだなんて
いってたけど、その後現物で確認したら、柄がつながっている
コマ死ぬほどあったよ。
私もこの番組好きだけどさ、確かにこれでマンガ読みとして
開眼したとこもあるし。
だけど、こういうちょっと信用できない部分が
多すぎると思っているんだけど。2chじゃないんだからさ。

128 名前: マロン名無しさん 投稿日: 02/08/03 17:01 id:WrkKwfRM
愛情に基づいているのはわかるんだけどな。
でっちあげはでっちあげだな。

129 名前: マロン名無しさん 投稿日: 02/08/03 17:08 ID:???
柄が繋がってる人のも、あんなへたな手描きじゃ
どっちともとれる。

134 名前: マロン名無しさん 投稿日: 02/08/03 18:57 ID:???
そう言われて思い出したけど、
カイジで「ガラスの階段」に支柱が入っているって岡田が言ってた。
「作者もちゃんと考えてるんですよ!ちゃんと支柱が入ってるんです!」と。
でも、コミックスで調べてみたら支柱なんて入って無い。
たぶん、向こう側が透けて見えたのを勘違いしたのだろう。

144 名前: マロン名無しさん 投稿日: 02/08/04 04:02 ID:???
>>127
それは違うだろ。
岡田の言うとおり、高山初登場の回ではちゃんとスーツの
柄が食い違っている。
これは漫画家として意図しなければできない作業。
しかし2回目登場以降は面倒だし、一度表現したから
必要ない、と作者が判断したんだろ。

153 名前: マロン名無しさん 投稿日: 02/08/04 13:13 id:EUjq3RMs
オレもナニ金スーツの柄説は気になっていた。
あってるところも、あっていないところもあるんだよね
岡田氏は確かに、自分の直感に固執するあまりの見切り発車が
多いかもね。
ナニ金の作者が入れ込んで入れ込んで、情熱を注ぎ込んで
書き込んでいるのが伝わってくるだけに、その証拠として
挙げようというところに突っ込みどころが多いのは残念だ。
揚げ足をとられてもしようがない。
もっと突っ込んで調べて、気合はってのぞんでくれ、
青木雄二並に。

私は実際に『ナニワ金融道』を読んで事実関係を確認していない。また、番組での指摘の仕方(予め準備してきて指摘したのか、その場で気づいたので言ってみたのか)も不明だ。*1
しかしながら、2ちゃんねらー諸氏の証言を信じるならば、この辺は、出演者の指摘箇所が、作者の意図だったのかどうかが同じ作品の他の箇所で傍証できる例である。
むしろ、他の箇所によって、その指摘自体が誤りらしいことが明らかとなった(144氏の言うようにその回だけ意識したのなら別だが)。

とはいえ、『BSマンガ夜話』はライブの放談番組なので、その辺は面白ければいいという気もする。
そういう点に着目することによって何かが語れるということ、もしくはそういう点に着目するということ自体、普段批評的なものの見方をしていない一般視聴者にとっては新鮮であり、翌日からのマンガを新しい読み方で読めるようになる。リテラシーレベルが上がるのである。
岡田斗司夫の『オタク学入門ISBN:4102900195 http://www.netcity.or.jp/OTAKU/okada/library/books/otakugaku/mokuzi.htmlは、そういう意味で胡散臭い記述も多いが、作品を見るリテラシーの経験値稼ぎにはもってこいの良書である。私も昔これで目から鱗が少し落ちた。
作者の演出意図を読むのは、批評眼を養うにはいい。だがそれだけ読んだり書いたりしていても、批評にはならない。『オタク学入門』はいい教科書だが、それ自体は言及されている作品の批評ではない。そういうことだ。

*1:本来、例として使うならばちゃんと確認すべきなのだが、ここは日々思ったことをその場で書き留める場だと規定しているので、その無責任さは承知しつつ未確認のまま論を進めさせていただく。