『ゼルダの伝説トワイライトプリンセス』は、世界が反転しているッ!!
任天堂の新型ゲーム機Wiiの最大のキラーソフトといわれているのは、『ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス』です。
http://www.nintendo.co.jp/wii/rzdj/index.html?link=text
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- 出版社/メーカー: 任天堂
- 発売日: 2006/12/02
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でも、実はこのソフト、一世代前の(つまり現行の)ハードであるゲームキューブ(GC)用に開発されていたのを、
「あのWiiのリモコンで遊べたら楽しいんじゃないですかね?」
「そうですね。どうせWiiにも目玉ソフトがないし、Wiiのローンチに使いましょう」
……と、任天堂の人が考えたのかどうかは知りませんが、とにかくWii用ソフトとして発売されます。(なので、映像などはGCクオリティに準じるものになるらしい)
で、普通だったらGC版は開発中止・発売中止になるのですが、そこはゲーム業界の良心、天下の任天堂です。
Wiiを買えないお子様のために、ちゃんとゲームキューブ版もリリースされます。
(通販専用だけど)
http://shop.nintendo.co.jp/GoodsList.do?CATEGORY_ID=zelda
で、この違いがウェブサイトで発表されているのですが。
Wii版とGC版の違いについてhttp://www.nintendo.co.jp/ngc/gz2j/index.html
画面表示について
Wii版とゲームキューブ版では建物や仕掛けなどの構造物やマップ、キャラクターなどが左右反転した状態で描かれます。例えば、Wii版では主人公であるリンクが右手で剣を持つのに対して、ゲームキューブ版では左手で剣を構えます。
な、なんだってーーーー!!
つまり、Wii版に慣れた人がGC版をやると、世界が左右反転している、ということです。
SFなどで、鏡の中の世界に入ると、すべてが反転していたりしますが、あれですよ、あれ。
GC版をやった人がWii版を、Wii版をやった人がGC版をやると、大混乱は必至。
鏡文字で日記を書いてたダ・ヴィンチぐらいじゃないの? できるのは。
(ダ・ヴィンチといえば、『ダ・ヴィンチ・コード』
ですよ。この映画については、けっこう語りたかったのですが、DVD出てしまいました。今度書きます)
左右反転。
なんでこうなったのか。
私の想像ですが、主人公のリンクが左利きだったことに由来するのではないでしょうか。
ファミコンのディスクシステムで出た、初代『ゼルダの伝説』から、リンクは左利きでした。
↑ほらね。
なぜ左利きなのかというのは、諸説がありますが、作者の宮本茂さんが左利きだからというのが最も有力視されている説です。
(というか、当時のファミマガか何かのインタビューでミヤホンさん(当時の宮本さんの媒体に出るときのニックネーム)がそう言ってた気がします)
で、Wiiは、例のヌンチャクコントローラーでコントロールする。
多くのプレイヤーは、当然のことながら右利きです。
「プレイヤーが右利きで、右手でヌンチャクを振り回すのに、画面のリンクが左利きで、剣を左手で振り回す」だと、いろいろと不都合が出る。
で、
「画面のリンクも、右利きにした方がいいんじゃないですかね?」
「いや、リンクといえば左利きだ! 20年前からそうなってる! これは絶対譲れない!」
「いや、お客さんの遊びやすさが一番大事だ!」
……などと、任天堂社内で「プロジェクトX」さながらの熱い議論が行われ、結局右利きになった、と私は想像します。
しかし、リンクだけ直せばいいわけではありません。
リンクが左利きから右利きになったことによって、すべてが変わるのです。
なぜなら、ゲームの世界というのは、プレイヤーキャラクター(主人公キャラクター)のためにすべてが設計されている世界だからです。
考えてもみてください。
世の中のものは、ほとんどすべて右利き用にデザインされています。
改札のきっぷ挿入口、自販機のコイン挿入口、ハサミ……等々。
それを、「今日から、世の中の人がみんな左利きになるので、作り直してください」という話になったとして、そう簡単に直せるわけないでしょう。
直すには、膨大な作業量が必要。
しかし、デジタルの世界で使える、魔法があったのでした。
デジタルでは、左右反転は、簡単です。
「別にいちいち調整し直さなくても、世界全体を左右反転すればいいじゃないか。」
この、なんという、コロンブスのタマゴ的な発想。
このとんでもない発想法。さすが任天堂。恐るべし。
現実の世界を舞台にした『龍が如く』
とかだと、こうはいきませんね。
ともあれ、英語の「right hand」は、「正しい手=右手」ということらしいですが、まさに「右手にするのが正しい手」ということになったわけです。
私は、『ゼルダの伝説 風のタクト』
で、リンクは左手に指揮棒を持っているのに、コントローラーでは右手でスティック操作しなければいけないのに納得しなかったとか、
あるいは『ICO』で、主人公のイコという少年がヨルダという女の子と手を繋ぐのは左手なのに、手を繋ぎ続ける操作が「(右手で押す)R1ボタン押しっぱなし」という仕様が許せなくて、コンフィグでL1ボタンに変えたとかいう人間ですので、
今回のこの英断には拍手であります。
つまり、
画面内のプレイヤーキャラクターが右手で行う動作は、プレイヤーも右手で操作しなければならない。
という話です。
それはさておき、(私の脳内の)任天堂社内に戻りましょう。
そして、誰かがつぶやく。
「あれ? じゃ、ゲームキューブ版はどうするんです?」
また喧々諤々(←誤用)の議論が半日続き、
「せっかくだから、リンク本来の姿である、左利きで出そうじゃあないか!」
「そうですね。左右反転していたほうが、お客さんも両方やる楽しみがありますし!!」
……みたいな結論に達したのではないかと、私は妄想します。
まあ、実際は宮本さんの鶴の一声で決まったのかもしれません。
仕様を切る人、デバッグをする人、攻略本を作る人、いろいろ大変じゃないのかなあ。まあ、攻略本では、GC版はないものとして処理するのかもしれませんが。
鏡像世界といえば、ゲームは同じデータを使いまわすことが得意ですから(作る方の手間は省けますから)、鏡像世界ネタはちょくちょく出てきます。
(それよりも、『ドラクエ6』『クロノ・クロス』とか、「そっくりな別の世界」というのが多いですけど)
鏡像世界で思い出すのは、スタートしてすぐ逆走して壁に突進すると、突き抜けて鏡の中の世界に突入して、鏡像コースが走れる『リッジレーサー』(PS版)ですね。
ミラーワールドといえば、ゲームじゃないけど『仮面ライダー龍騎』 も名作だったなあ。「俺は幸せになりたかっただけなのに……」
あと、せっかくなので、一昨年ポンペイで私が撮った「犬のゆか絵」の写真を、左右反転して貼っておきます。
いずれにせよ、結論としては、
鏡に「中の世界」なんてありませんよ… ファンタジーやメルヘンじゃあないんですから。
ということで。
(追記)
人から言われて気づいたのですが、現在発表されている『ゼルダの伝説トワイライトプリンセス』のパッケージイラストも、左利きなんですね。http://www.nintendo.co.jp/wii/rzdj/index.html
これも左右反転して解決するんでしょうか?
先日紹介した『萌えるアメリカ』
(→id:AYS:20061031)でも、米国で最初マンガを出版するとき、左右反転したので、剣を持つ手が左手になってしまった、という話があったなあ。
「デッサンがちゃんとなっているかどうかは、描いた絵を紙の裏側から見てみろ(左右反転してみてみろ)」などと言うらしいですが、左右反転すると荒が見えてしまったりするんですね。
左右というのはなかなか奥が深いです。
- 作者: マーティンガードナー,Martin Gardner,坪井忠二,小島弘,藤井昭彦
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 1992/05/01
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あと、ややこしいのは、「鏡はなぜ左右は反転するのに、上下は反転しないのか」問題ですね。なぜでしょう?
- 作者: 高野陽太郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1997/10/22
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(以上、追記)
『ファイナルファンタジーXI プレイ日記 ヴァナ・ディール滞在記』
はてなダイアリーの一冊百選 #003
永田泰大『ファイナルファンタジーXI プレイ日記 ヴァナ・ディール滞在記』エンターブレイン(2003)
ファイナルファンタジーXI プレイ日記 ヴァナ・ディール滞在記
- 作者: 永田泰大,みずしな孝之
- 出版社/メーカー: エンターブレイン
- 発売日: 2003/04/26
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昨年のJTB紀行文学大賞を受賞したのは、森まゆみ『「即興詩人」のイタリア』(講談社)という作品だった。一方、同じく昨年出版された『ファイナルファンタジーXI プレイ日記 ヴァナ・ディール滞在記』は、紀行文学の近年稀に見る大傑作である。しかしながら、本書がJTB紀行文学大賞を受賞することはありえないことではあった。紀行は紀行でも、架空の世界への紀行文学であるのだから。さすがのJTBも、架空世界へのパックツアーは難しいとみえる。
架空世界の紀行文学というなら、『指輪物語』をはじめとして、多くのファンタジー作品が架空世界の紀行文学だといえなくはない。たしかに本書の舞台も一種のファンタジー世界である。だが、ほとんどのファンタジー小説は、世界を創造した作者自身が作中人物に旅をさせ、それを描写するのに対し、本書の作者は何十万人もいる架空世界のいち参加者であって、けっして世界の創造者ではない。創作物語ではなく、あくまでノンフィクションなのである。そこに本書の特異性がある。
『ファイナルファンタジーXI』というのはテレビゲームの一種である。よくあるテレビゲームと少し違うところは、ヴァナ・ディールという名前の広い仮想世界があって、多くの参加者がインターネットを使ってそこに集い、共に旅をしたり怪物と戦ったりしているという点だ。そうした世界にほとんど予備知識もなく飛び込んだ筆者が、何を見、何を感じ、何を考えていったかという記録が本書である。
旅は人を哲学的にする。殊に旅行記を書こうとした場合、そこに作者の旅人としての思弁が入り込むのは避けがたい。はたして本書も例外ではない。さまざまな人との出会い。新しい土地に立ったときの感動。世界の真実の欠片の発見や人間の普遍的な在り様の目撃。そして直感的でありながらも深い洞察が織り交ぜられる。もちろん単なる日記などではない。もともとがウェブ上で公開された連載企画であり、数ページ単位の各章は気軽に読める独立したコラムとなっている。
作者はゲーム雑誌『週刊ファミ通』の元編集者である。「風のように永田」のペンネームでも知られ、あくまで自然体なその文体にファンも多い。糸井重里氏のサイト『ほぼ日刊イトイ新聞』で「オトナ語の謎。」という、後に書籍化もされた人気連載を担当していたのも作者であるという。なるほど納得だ。
本書において、架空世界で日々起きる諸々の出来事を見つめ、峻別し、描写する作者の筆致は秀逸というほかない。たとえば再会と別離の描写は次のようだ。
──思い出した。
その人は、僕がこの世界で初めて言葉を交わした人だった。(……)
「ひさしぶり!」
彼は僕のことを覚えていた。本当にひさしぶり、と僕は打った。そして、忘れてるかと思ったよ、と続けた。彼は言った。
「忘れるわけないよ、初めてしゃべった人だもの」
僕はとてもうれしかった。僕と彼は、近況を話しあった。(……)
会話が終わりの雰囲気をともない始めたころ、彼は少し間をおいてつぎのように言った。
「俺、あなたをずっとさがしていたんだよ」
僕は驚いて、うれしくて、申し訳なくて、うまく言葉がみつからなくて、反射的にもごもごと謝った。鼻孔の奥にツンとする妙な痛みが走った。
(pp.213-215)
僕は焦りながら、経緯を説明した。僕がサーバーを移住してしまうということ。僕とNさんは初めて言葉を交わした相手どうしだということ。待ったがNさんが来ないようなので、失礼だとは思うが伝言を頼みたいということ。(……)
僕はモグハウスでログアウトのボタンを押し、半年のあいだ過ごした大地から離れた。何も考えないようにしていたけれど、画面が暗くなり始めた瞬間、二度とここに戻れないという思いがかすめて体のどこかがチクリと痛んだ。
そして、気がつくと僕はもうそこを離れていた。
ゲームを終えたあと、僕は自分を包む奇妙な感覚について考えていた。
おそらく、僕とNさんが接点を持つことはこれから一生ないのだろう。名前も顔も知らない人の操作するキャラクターに感じるこの寂寥はなんだろう。
寂寥はNさんに対してだけではなく、僕の言葉を伝えてくれるNさんの仲間に対しても生じていた。ほとんど接点のなかった人たちに対して、どうしてこんな親密さを感じるのだろう。
この日、多くのプレイヤーがこういった特別な感情に包まれたのだろうと思う。
こんな感覚を僕はほかに知らない。
(pp.411-412)
人生で起こることは、すべて、ヴァナ・ディールでも起こる、のかもしれない。デジタルで構成された世界で生身の人間たちが遭遇する出来事は、現実世界で我々が出会う出来事の相似であるかのようにも思える。それでいて、少し異質な、むしろこれまでかつてなかった現象であるかのようでもある。
『奥の細道』が旅の動機の説明と支度の記述から始まるように、本書もヴァナ・ディールという世界に行くことになったいきさつと旅立ちの準備の記述から始まる。
ところが、それが50ページも続くのだ。具体的には、ゲーム機をインターネットに繋げるための装置を手に入れる苦労や、手に入れた後もインターネットに接続しようとする際に続出するトラブルなどである。だがこの箇所は、一般読者には無縁のつまらない技術的な話などではない。むしろ逆である。ゲームを始めたくとも始められない、その作者の七転八倒する箇所は抱腹絶倒の読み物であり、そしてこのゲームについて特別な知識を持たない読者と同じ目線で始まるからこそ、読者は作者とともにすんなりと架空世界に第一歩を踏み出すことができるのだ。
紀行文学を読む読者のいったい何割が、実際に作者と同様の旅行をしようと思うのだろうか。スコット隊を描いた『世界最悪の旅』の読者のうち、実際に南極に足を運んだ者がどれだけいるというのだろう。紀行文学は、必ずしも実際にその地に過去に行ったり、将来行くことを考えている人間だけが読むものではない。
ところが、本書は往々にしていわゆる「ゲーム攻略本」の一種であるかのように見なされ、『ファイナルファンタジーXI』というテレビゲームをすでに遊んだことがあるか、あるいはこれから遊ぼうとしている読者のための書であるかのように思われてしまいがちである。決してそんなことはない。本書はすべてモノクロで、トビラ以外にはゲームの画面写真は一枚も使われていない。ヴァナ・ディールの風景も、そこを行き交う人々の姿も、すべては作者の記述をもとにした読者のイマジネーションに委ねられる。優れた紀行文学が常にそうであるように、読者はその一冊を読み、作者の旅を想像力によって追体験するのである。
ゆえに、このゲームを未体験で、今後もするつもりがない読者にこそ、むしろ本書は純粋に新鮮でかけがえのない読書体験を与えてくれるに違いない。かくいう私も、このゲームをしたことは一度もないし、今後もする予定は、ないのである。