打てば響く

先日書いたこと http://d.hatena.ne.jp/AYS/20040906 は、特に結論(イイタイコト)もない、単なるメモだったのだが、けっこう反応があった。
ああ、ブログってそういうものだったんだよなあ。忘れていた。
インターネット時代に生まれて良かったなと思うのは、こういう思考の連鎖で何かが生まれるのを感じるときだ。

時間がないのでとりあえずメモ。(すいません)

ityouさんは文章さんとのあくなき戦いを禁欲的に続ける戦士。

ここで紹介されて、GAMIANがこの2日間で200アクセス以上になってるっぽい。人気サイトさんだったのか!

まだちゃんと読んでいないのだが、ちゃんと読んで私もちゃんと考えないといけない内容のようだ。
この方も文章さん(id:ityou氏風の呼び方)と向き合う戦士なのだな。
例によって私が買いかぶられてる模様。
特にここ(AYSはてな)では書き流してるだけなので、誉められると穴があったら入りたくなってしまう。
とはいえ、前回も書いたが、自身も優れたゲーム眼を持つ、「ゲームのことをわかってる人」に誉められるときほど嬉しいことはない。

さらに、A.B.さんの論考はこちらで引用されて、さらなる考察がなされているようだ。

detect them all

土日は「時代のアイコン展」http://www.matsuya.com/ginza/art/jidai/wd.htmlに行きたかったのだが、天気が悪いので断念。6日間だけの開催って何だそれは。
仕方がないので家でおとなしく、久々にネットをのんびり見たり昼寝したりしていた。

あまりサイトをチェックする時間がないので、たかなべさんのサイトで紹介されているのをよく見ている。
http://d.hatena.ne.jp/takanabe/20040904

今日はそんなわけで話題に乏しい日なので、「ラヴフール」の子ページであるところの「ラヴゲーム」がほめられて、それを僕が見つけて、その後のやり取りなどを含めたこのページでもみていてください。ゲームとゲームを取り巻く言葉は楽しいほうがいいね、と初心に帰ったしだいでございます。
http://ggggg.jugem.jp/?eid=10#comments

というのを、今日はふむふむと読んでいたら、そのさらに参照元ページが載っていた。
http://ab.txt-nifty.com/ab/2004/08/post_1.html

ゲームの批評と「匠の目」
■ジャーナリストの視点から見るゲーム業界の裏側
 ライターや市井の識者たちの中にもいろいろなタイプがいて、分析力の高い人、文章がもの凄く上手い人、やたら事情通な人など様々だ。ただ、その中でも特に際立った文章を書く人たちの中には、ある共通した特徴があるように思う。
 それは、キーとなる要素を軸にしてゲームを読み解く、「一点突破能力」とでも言うべきものだ。分析力が高い人ならそのゲームの面白さ、斬新さのコアとなる部分をズバリと指摘し、それを元にゲームを分解して行くし、着眼点や洞察力が優れている人ならそのゲームを見る上で思いも寄らなかった視点を提示してくれる。その手法で書かれた文章は主題がはっきりしていて内容がブレず、また文章量も少なくて簡潔にまとまっている事が多い。
 例を挙げると、自分的に大ファンであるライターの多根清史氏の書く”批評文”(「コンティニュー」のレビューとかはまた別)には一定のパターンがある。ゲーム批評最新号(Vol.58)に載っている「マリオvsドンキーコング」の記事を参考にすると、

(起)最近流行っているタレントや芸人のコンビ再結成に関する分析
→書き出しは豊富なサブカル系の知識を元に一見ゲームとは関係ないネタを振っておく。

(承)同作はマリオとドンキーコングが敵味方という関係を解消して袂を分かった後、人気の凋落に伴いGBAでコンビを再結成したリメイク作品であり、うらぶれた印象は拭えない
→そのネタと題材のゲームを絡めて、そのゲームを読み解く視点を固定。

(転)64以降の3D化により、ミスに関するルールが変更され違う存在へと変化したマリオとドンキーコングを、再び落下一発死というフィールドに引き戻した事への違和感
→今までの文章の流れをいったん切って、具体的な部分に言及。

(結)世代による「マリオ像」「ドンキーコング像」の変遷。一体誰にとって懐かしい作品なのか。リメイク作品の難しさと、任天堂らしからぬ無造作な「コンビ再結成」であった事の悲しさ

→具体的な事例を受けて前半の流れと統合、締めくくり。
 と、おおまかにこういう内容になっている。元記事と併せて読んでもらうのが一番なのだが、視点がユニークかつ主題がはっきりとしていて、説得力のある文章にまとまっている。

多根さんはほとんど唯一、看板に偽りがない「ゲーム批評」を書こうと取り組んでおられる方だもんなあ。それでいて、オモシロ文章も書けるという。すごい。
他と違って、ただのスペック評価でもないし、一方どっかから借りてきた生半可な学術用語みたいな、一見それっぽい胡散臭いキーワードを引用してきてゲームを語ったフリをしているものでもない。

で、さらにふむふむと読んでいたら、過去に自分が書いた文章が紹介されていて誉められていてびっくりした。

もうひとつ、よくここでも参照させて頂いている「GAMIAN」(http://www.intara.net/og/)の記事。

コマンド──「ヤス」という発明 ポートピア連続殺人事件(1)
http://www.intara.net/og/portpia.shtml
なにか とれ・ふく──最後の命令 ポートピア連続殺人事件(2)
http://www.intara.net/og/portpia2.shtml

 こちらはまさに正面突破の構造批評なのだが、ゲームのコアとなる要素を的確に抽出して分析しているため、たったこれだけの文章量で驚くべき説得力を持っている。文章は簡素だが、この結論へと至るには膨大な知識を下地にした考察の変遷があった事は想像に難くない。

 面白い文章、読ませる批評文というのは様々なパターンがあって、いちいち納得しながら読む必要はない。しかし、やはり読むのなら、ミステリで名探偵が鮮やかにトリックを解き明かすような、そんなカタルシスを感じられる文章を読みたい。あるいはそのゲームの中心にある原理、結晶のようにシンプルな答えであり、鍵でもあるそれをもって、自分でもゲームという構造物を読み解きたいという欲求はある。

とまあ、すごくうれしいことが書いてあったわけである。
けっこうワンパターン化してしまってていかんなと思ってはいるのだが、私のコラムのパターンで多いのは、


冒頭の読者への謎かけ(あるいは意味不明な話)

取り上げるゲームの歴史的経緯とか状況とか

本稿の核心

忘れた頃に冒頭の話の答えを与えて終わり

というものだ。
指摘された通り、「ミステリで名探偵が鮮やかにトリックを解き明かすような、そんなカタルシスを感じられる文章」を狙ってのことである。
最初は狙ったわけではなく、特に構成は考えずになんとなく書いたらそうなっただけではあるが。
狙った、一点突破に関しては、http://d.hatena.ne.jp/AYS/20030810で書いたが。
たぶんこの辺のテクニックは予備校生時代、小論文を書く勉強を個人的にちょっとやったから身についたんではないかと思う。

以前http://d.hatena.ne.jp/ityou/20040710id:ityouさんと電話で話したときに言語化できたのだが、ゲームとか映画とかに関して、他人と違う、面白いと思ってもらえるような文章を書こうとするには、たとえばふたつの方法がある気がする。

  • 誰でも知っている題材に関して、誰も聞いたことがないような切り口で語る
  • 誰も聞いたことがないような題材に関して、普通の切り口で語る

後者はたとえば誰も知らないクソゲー紹介とかである。
「誰も聞いたことがないような」というパートで面白さが生まれる。

  • 誰でも知っている題材に関して、普通の切り口で語る

というのは誰でもできることであり、実際ネットにはこの手の文章が一番多いが、あまり面白くない。

一方、

  • 誰も聞いたことがないような題材に関して、誰も聞いたことがないような切り口で語る

と、誰もわからない話になるので面白くないのである。

私がよく過去のゲームを話題にして、最近のゲームを話題にすることが少ないのは、単に最近のゲームをやってないとか、最近のゲームは似たり寄ったりで語る余地が少ないとか、最近のゲームはまだ評価が固まっていないのでそこから問題にする必要があるので面倒くさいとか、いろいろ理由はある。
だが、一番の理由は、過去のゲームの方が、「誰も聞いたことがないような切り口」かどうかが書く前にわかるということだ。
他人がそのゲームをどう語ったかをあらかじめ見ているので、それを避ければよいのである。遅出しジャンケンである。つまりズルい。
どういうタイミングで何に関して書いてもOKなウェブだからこそできることである。

が、ここ数ヶ月は仕事に追われて完全に家には寝に帰るだけの生活で、ぜんぜん文章を書かないどころか、ゲームをまともにやってすらいないし、ゲームについて考えてもいない。
休日は退屈な日常からの逃避のために展覧会めぐりをするだけ。この日記も最初は思考メモのつもりだったのだが、最近ではすっかり展覧会めぐり日記になってるし。
このままではいかんので、近々生活を変える予定。



それにしてもこのabさんのサイトは初めて拝見したのだが、「わかっている方」なのだなあ。過去ログをちゃんと読みたいところ。
ざっとスクロールした中で見つけた中では、この辺の指摘が面白かった。
http://ab.txt-nifty.com/ab/2004/07/index.html

 例えば、「悪魔城ドラキュラ」のミソである鞭アクションの快感というのは、ボタンを押してからワンテンポ遅れて発生する攻撃判定<と、X軸をずらして接近してくるコウモリに代表される敵アルゴリズムが、空中制御の効かない固定軌道ジャンプと絶妙のバランスで噛み合っている所から生まれている。ボタンを押すタイミングの微妙なズレが攻撃の重さを表現しているというのが、このゲームの快感の秘密だ。

 これは、床ブロックに接触判定が出来るのが上方向からのみであるとか、一部の敵や攻撃が地形を無視して接近してくるという所に依存する部分も大きいのだが、何故そうなっているかというと、余計な部分の当たり判定を抜いてメモリを軽くしようという試みの副産物なのではないか、と推測できる。

 余計なグラフィックパターンは入れ込めないので均一なブロックで構成されたようなマップ構成が多くなり、しかしそれを逆手にとって「迷宮寺院ダババ」のような傑作が誕生したりもした。こういった制約をプラスに転じる鮮やかな発想こそが、ゲームという工芸品の持つ美しさの根元を成している、と個人的には考える。

私が初代『ドラキュラ』を好きになりきれない部分はまさにここであるが、かといってメトロイド化したPS版『ドラキュラX』もなんか違うだろ、と思う理由もたぶんこの辺なんだろう。
この辺が好きな人がいるだろうことはよくわかる。

Sturm und Drang

私の『逆転裁判』を扱ったコラムに関して、発熱地帯さんは次のように書いてくださっている。
http://amanoudume.s41.xrea.com/cgi-bin/mt/archives/000126.html

開発者やマニア層で話題になっただけに、誉めるレビューはかなり多いのですが、ピンとくるレビューがどうも見当たらず、気になっていました。要するに「俺はこのゲームを誉めたいんだ!」という一言で足りるんですね。他は何もいってません。(別に、「好き好き」という感想なら、それはそれでいいんですが、レビューとしてやられる、と……)
誉めるのは簡単ですが、どこを誉めるかが難しい。そういうことを教えてくれるレビューでした。

レビューにまつわる問題。http://d.hatena.ne.jp/AYS/20030810で私は

個人ページによく「俺のゲーム批評」みたいなコーナーがあって、読むと「グラフィックはよい。操作性はイマイチ。8点」みたいなことが書いてあるんだけど。
こういうのを「批評」と呼んでも悪くはないとは思うんだけど、あまり読みたいとは思わない。
ただ、自己紹介の一部としてなら大いに存在意義がある。

と書きましたが、自己紹介だけでなく、「好き好きレビュー」は、そういう記事がネット上でどのぐらい目にするか、というのでその作品の人気度を測るバロメーターにはなると思います。
ただ、いい指摘をしてくれて、論理的に誉めているサイトはgoogleでは検索不能なので、私のような理屈好きとしては、はがゆいところです。(知っているのはリンクhttp://www.intara.net/link.shtmlに載せているところぐらいですかね)


前にも何回か書きましたが、GAMIANが「ゲームレビュー」かというと、微妙だと思っています。
私の思い込みかもしれませんが、レビューというと、ブックレビューみたいに、まず作品を鑑賞して、その全体を踏まえたうえでその作品の価値を論じる、というもののような気がします。
re+viewと書くから、文章であらすじを概観して論じる、というようなイメージを抱いているのかも。

しかしながら、GAMIANではあまりゲームソフト単体をパッケージとして評価しません。
「ゲームについて」は、そのゲームデザインの一部分を取り上げて、その価値を論じようとしています。
「ゲーム紹介」は、基本的に私が気に入ったゲームを、やはりそのゲームデザインの一部分を取り上げて誉めて、勧めようとしているだけです。
こういうのがゲームソフトのレビューかというと、どうなんでしょう。

突然ですがここでトリビア

AYSは、雑誌『ゲーム批評』のライター募集で、落とされたことがある。

上京したとき(2002年)にアルバイト目的で面接に行ってみたんですが、ダメでした。
ゲーム批評』をなめていたところがあったというのもあり、けっこう悔しかったので、「しょせん三流雑誌『ゲーム批評』の編集者は私の書くものの価値すらわからぬのだ」とそのときは納得しようとしたのですが。
ゲーム全体の良し悪しを論じようとしない私の書き方がゲームレビューとしてはナシだったのかな、とも思っています。

と、例によって脱線しまくりですが冒頭の発熱地帯さんでのアテナさんのコメント。

>レビューとしてやられる、と……
 ごめんなさいごめんなさい。サイトの方では特に深く考えることなく「レビュー」と言う単語を使っておりました。中身は「面白かったー!」というだけのお話なんで、ちょっと書き方を直しておこうかと思います。確かにレビュー=評論ですもんねえ。

ん〜? アテナさんの『逆転裁判2』『3』レビューですが、http://www.yaotome.jp/chkof/gyakutenkof.html http://www.yaotome.jp/chkof/000401.html 対談形式とはいえ、こういう内容が、それこそレビューなのではないですか?
すごく具体的にどこが良かったとか悪かったとか書いている、内容のあるものです。

けっこう友情にヒビを入れたり、無用に敵を作る発言になってしまいがちなので、これまであまり書いてこなかったのですが、ドサクサにまぎれて吐露しますと、私はウェブの対談形式の文章が、実はあまり好きではありません。……という書き方をしているというのは、つまり(ここでは)大嫌いという意味ですが。
たとえば、自分の名前を一人称にして話す女の子がいます。「カナはね〜」とかいうふうに言うカナさんのことです。まず私はあれが嫌いです。おかしいよ、さっちゃん。一人称を表明せず、三人称的に表現して甘えているように感じる。(逆に我が強い表現に感じることもありますが)
対談形式は、その嫌な感じをさらに加速したものに見えます。一人称で堂々と文章が書けず、仮想キャラクターに自分の言いたいことを託す。書き手がその生身を読者に曝け出すのではなく、あくまでそのキャラクターがその人格の責任においてそう語っているのだ、必ずしも自分の意見とは100%一致しない、と言い訳の余地を残しているのです。
さらに、自分の発言に自信がないからなのか、あるいは別の理由からか、もう一人の仮想キャラクターを作り上げ、それにツッコミを入れさせたり、賛同させたりする。
そういうジサクジエンが、なんかすごく独りよがりで、甘えた言論活動に見えてしまうのです。(甘えた自己表現というなら、よくある「100の質問」なんかに対する私の感情も、これに似ています。)*1

また、会話の内容も、どこかのマンガやアニメやゲームで見たようなやりとりのことが多い気がします。凝ったのになると、それぞれのキャラクターのいろんな表情の画像までつけてたり。そういうカルチャーの読者は共同体意識で楽しめるんでしょうが。
しかも一般的に回りくどい。私は余計なアニメ風素人会話芸など読みたくないのです。本題だけ提示してくれと。

というわけで、これまでの私の嗜好からすると、アテナさんの『逆転裁判2』『3』レビューは本来、形式的に辛くて読めない部類に入るのです。

と、ここまで読んだ方は、では私はアテナさんのレビューにも批判的なのだとお思いか。
これはしたり! ズヴァリ今回にかぎってそんなことはないのであります!
いいですか、だいたい、書き出しがこうですよ。

A:やあれ皆様。本日はこの麻宮アテナがお送りする「逆転裁判3」レビュウへようこそ。この空前にして絶後、地も動き天も驚く名作ゲエムの最新版をプレイ出来たその喜びを、まずは皆様と共にお祝いしたい。

やあれ皆様ですよ。レビュウですよ。ゲエムですよ。
つまり『逆転裁判』における文体とは、こういうものなのです。
逆転裁判』を語りたいのであれば! この文体でなすべきなのですよ!
魑魅魍魎の跳梁跋扈する頻闇の帳が帝都を包む宵、決闘の緞帳が開くのです!

*1:甘えた自己表現といえば、この私のはてなダイアリーがその最たるものです。推敲せず、思ったことをそのまま脈絡なく記述しているわけですから。さらに、他人の書いたものを引用して尻馬に乗る、という形式。表題の「follow them」とはつまり他人の言説の後をついていくことを意味しています。

lock on target

先日http://d.hatena.ne.jp/AYS/20040314夏目房之介さんがBSマンガ夜話http://www.nhk.or.jp/manga/ぶっせん』の回http://www.nhk.or.jp/manga/arc/23/02/index.htmlで、「後ろでこのキャラがこういうことしてる」とか普通の読者は気づかない細かいところに気づくゲストがいた、という話をされていた。
私もこれは記憶にある。最終回に読者も忘れていた(作者も普通なら忘れてる)幽霊がちゃんといるとか。
たしか女性ゲストだったと思うけど。検索してみた。
http://www.geocities.co.jp/AnimeComic-Cell/4580/list/23.2.htm

石堂夏央はいままでの女性ゲストの中ではなかなか良かった。
甲殻機動隊の時の岡田氏の解説のような
マンガを読みなれてない人が読んだらサッと読み流すような
細かい画のところの話はなかなか盛り上がっていて良かった。

これだ。たしかに『攻殻機動隊』のときの岡田斗司夫氏の解説もすごかったなあ。工学迷彩で消えた多足歩行ロボが足をついたときに出る砂煙の描写に対する指摘とか。

マンガ夜話』は確実に視聴者の批評的見方としてのマンガリテラシーを上げていると思う。
私なんかは絵よりも脚本の方にこだわるタイプなので、どうしても絵よりもふきだしだけで意味を読み取ろうとしてしまう。それでも、『マンガ夜話』などのおかげで絵に対する読解力はそれなりに上がったと思う。

たとえば『プラネテス』2巻p.34の2コマめでロックスミスが記者会見で釈明しなかったことに対して、三人が「なんて奴……」と異口同音に言っているが、ユーリとフィーは軽蔑の表情があるのに対して、ハチマキは単に驚いているだけとか。(ユーリとフィーの表情も微妙に違う)
p.146の最初のコマ、爆発の瞬間、ゴローさんがちゃんとハチマキとタナベをかばってるとか。
そういうのは昔だったら読解できずに流してしまっていたと思う。
(でも3巻p.143の「「娘さんをボクにください!」って感じ」のコマだけ、ジーパンのはずのタナベがスカートになってるというミスはネットで知るまで気づかなかった)

検索の過程でいしかわじゅん氏のページのこれを発見したのだが、マンガ夜話の控え室ってこんなのhttp://hw001.gate01.com/jun-i/manga23.htmlなのか。もっと応接室っぽいとこを想像してた。個室ってのもあるようだから、そっちはもっと豪華なのかな?

私はこう読む

id:AYS:20040317からの流れで。
id:AYS:20040316に「あるいは、作者の意図を見抜きまくっていっぱい並べるという手法もありますが。」と書きましたが、作者の意図や、意図を問わない効果を書きまくるというのは、いわゆる批評とはちょっと違うと思うけど(広い意味では批評の一種でしょうが)、大変面白いです。いわゆる詳細な注釈はそれ自身が価値を持つという。
id:ityou氏の「天空の城ラピュタ書き出し」http://homepage1.nifty.com/~yu/laputa/enumerate.htmlとか素晴らしい。未完なのが惜しいですが。id:AYS:20030817に書いた同人誌『刑事コロンボ読本』もそうです。
三者によるコメンタリーというのはあまりない気がするけど、やっぱり大変だから少ないのかなあ。古典には注釈が当たり前だけど、現代の作品に対してももっとあってよいと思う。
注リンク:
機動警察パトレイバー2 the Movie/解説」http://homepage1.nifty.com/~yu/p/memo.html
「「指輪物語」よもやま「王の帰還」 in ロンドン」http://app.memorize.ne.jp/title/35/84149/2004/01
「少年まんが必携」(「『GS美神』私注」等)http://www3.plala.or.jp/asinom/hikkei/hlist00.html
他にもよい注があればぜひお知らせください。

誤解は愉快の母*1

(前日の続き)
id:fs_gohho:20040306#1078574014

例えば、件のシーンはミステリ慣れしてる人向けのヒッカケでありますが、初めてミステリを読む読者などにはどう映るのか。翻訳してバーレーン人に読ませたらどう映るのか。経験値や文化圏の違いによって、作者と読者の手続きがうまく機能しなくなるようなケースの構造はどうなっているのか。
もっと単純に「別冊宝島 マンガの読み方」みたいな仕事ですとか。
あるいは先日リストアップしたような「作者のいない作品」「意図のない作品」をどう読むかといった問題ですとか。
そんな方向に思考をスライドさせていくと、なかなか楽しめるのではと思うのですが、どうでしょう。
もちろん上記のことは、作品単体を批評するにあたっては気にする必要性の薄い問題であるわけですが。

そういう問題にするならそれは面白いです。でも、おっしゃるように、それはその作品を批評することとは違ってしまう(広い意味では批評になるんでしょうが)。また、作者についての批評することとも違う。
メディアの文法そのものとか、メディアの受容のあり方について考えることですよね。

その『別冊宝島EX マンガの読み方』(宝島社 1995 絶版)はマンガというメディアの文法を解析しようとした先駆的研究のひとつです。
たとえば同書p.205夏目房之介「マンガ文法におけるコマの法則」図19では、マンガの見開きを4象限に分け、

(右上) 導入 進む、出る、闘う、目指す、遠くへ、遠ざかる、冒険、外部
(右下) 戻る、入る、逃げる、散ずる、近づく、休息、緩慢、弱まる、内部
(左上) 上昇、開放、解放、明るさ、軽さ、空、薄さ、発展
(左下) 下降、圧縮、束縛、暗さ、重さ、濃さ、密、停滞、澱み

などと書いています。(抜粋。実際は図であって、「右上」などの表記はありません)
「なお、図19についてはW・カンディンスキー『点・線・面 抽象芸術の基礎』(西田秀穂訳 美術出版社 '59年刊)の「基礎平面」の項などを参考にした。」とあります。
これらがどのぐらい科学的根拠があると証明されているのか、私は不勉強なので知りません。が、ほぼ経験則ではないかと想像します。個人的にはなんとなく同意できるものもあるし、それはどうかというのもあります。それはとりあえず置いておくとして。
あるマンガの、左上に位置する1コマを論じたいとする。で、たとえば

見開き左上は開放・解放などを現す。まさに親の束縛から解き放たれた主人公の表情を描写するコマが、この位置にあるのは素晴らしい効果を生んでいる。

とか書くとしますよね(最初の一文の根拠が不明なので多少うさんくさいですが)。
作者の計算だと確信して、なおかつ作者について何らかのジャッジをしたいなら、「さすが作者は上手い」と書いてもいいんですが、作品それ自体について書くなら別になくてもいいと思う。そういう効果があることが批評読者にも納得してもらえるなら、それはそれで事実です。作者が意図したのかは事実かどうか不明ですので。
で、「素晴らしい効果を生んでいる」からどうしたのか。そのコマが作品のハイライト中のハイライトなら、「それによって作品は素晴らしいものとなった」とか「作品の素晴らしさを象徴している。この作品は素晴らしい」なんて結論に直結できます。
でもこの結論だと、直結すぎで結論で別に新しいこと言ってないんですよね。結論も「素晴らしい」といういいか悪いかという尺度のジャッジだし。できればもうひとひねりほしいところ。

えーと、何の話だっけ。あ、思い出しました。で、左上にそのコマを書いたのが作者の意図かどうかを追求するのが常に意味を持つのか。意図かどうかを問題にするなら、次の3パターンが考えられます。

  1. あらかじめそのような計算のもと、意識的に作者はそう描いた。
  2. そのような効果を生むよう、無意識的に作者はそう描いた。
  3. 作者はまったくそんなことを考えていない。ただの偶然。

3だと、作者に「そのような効果が出ているか?」と聞いても「わからない」と答えるかもしれない。
いずれの場合でも、少なくともそのコマが読者に与える現象は同じです。
この3つのいずれなのかは、完全に立証することはかなり難しいでしょう。まあ意図的かどうかは、作者に聞くか(証言はあてになりませんが)、状況証拠で検証できなくはない。計算高い構成をする作者と、感性でやる作者はいます。たとえば浦沢直樹計算高いんじゃないかとか。
他のシーンでも必ず同様にやっているなら、3ということはないでしょう。で、作品自体がロジカルな印象を与えるのか、それとも感性で読ませるタイプの作品なのかで、1か2かを見分ける判断材料にはなります。
でも、そんなことを一生懸命考えても意味があるのかというと疑問です。

BSマンガ夜話』の『ナニワ金融道』の回だったと思いますが、出演者のどなたかが、作中人物の服の模様について、

高い服は縫い目で柄が繋がっているが、安い服は縫い目で柄がずれてる。この作品でも、金持ちが着る服と貧乏人が着る服ではちゃんとそれが区別して描かれている。

というような指摘をしていた記憶がある。(都合により、ここから文が常体になります)
が、ネットで感想を見たら、その指摘は勇み足ではないかというような議論があったような気がする。
……検索してみたら、あった。(よく覚えてたな自分)

http://comic.2ch.net/csaloon/kako/1026/10269/1026920789.html

127 名前: マロン名無しさん 投稿日: 02/08/03 16:59 id:WrkKwfRM
ナニ金の高山部長だけどさ、スーツの柄がつながっていないのは
ツルシしか買えないっていう設定だからわざとそう書いてあるんだなんて
いってたけど、その後現物で確認したら、柄がつながっている
コマ死ぬほどあったよ。
私もこの番組好きだけどさ、確かにこれでマンガ読みとして
開眼したとこもあるし。
だけど、こういうちょっと信用できない部分が
多すぎると思っているんだけど。2chじゃないんだからさ。

128 名前: マロン名無しさん 投稿日: 02/08/03 17:01 id:WrkKwfRM
愛情に基づいているのはわかるんだけどな。
でっちあげはでっちあげだな。

129 名前: マロン名無しさん 投稿日: 02/08/03 17:08 ID:???
柄が繋がってる人のも、あんなへたな手描きじゃ
どっちともとれる。

134 名前: マロン名無しさん 投稿日: 02/08/03 18:57 ID:???
そう言われて思い出したけど、
カイジで「ガラスの階段」に支柱が入っているって岡田が言ってた。
「作者もちゃんと考えてるんですよ!ちゃんと支柱が入ってるんです!」と。
でも、コミックスで調べてみたら支柱なんて入って無い。
たぶん、向こう側が透けて見えたのを勘違いしたのだろう。

144 名前: マロン名無しさん 投稿日: 02/08/04 04:02 ID:???
>>127
それは違うだろ。
岡田の言うとおり、高山初登場の回ではちゃんとスーツの
柄が食い違っている。
これは漫画家として意図しなければできない作業。
しかし2回目登場以降は面倒だし、一度表現したから
必要ない、と作者が判断したんだろ。

153 名前: マロン名無しさん 投稿日: 02/08/04 13:13 id:EUjq3RMs
オレもナニ金スーツの柄説は気になっていた。
あってるところも、あっていないところもあるんだよね
岡田氏は確かに、自分の直感に固執するあまりの見切り発車が
多いかもね。
ナニ金の作者が入れ込んで入れ込んで、情熱を注ぎ込んで
書き込んでいるのが伝わってくるだけに、その証拠として
挙げようというところに突っ込みどころが多いのは残念だ。
揚げ足をとられてもしようがない。
もっと突っ込んで調べて、気合はってのぞんでくれ、
青木雄二並に。

私は実際に『ナニワ金融道』を読んで事実関係を確認していない。また、番組での指摘の仕方(予め準備してきて指摘したのか、その場で気づいたので言ってみたのか)も不明だ。*1
しかしながら、2ちゃんねらー諸氏の証言を信じるならば、この辺は、出演者の指摘箇所が、作者の意図だったのかどうかが同じ作品の他の箇所で傍証できる例である。
むしろ、他の箇所によって、その指摘自体が誤りらしいことが明らかとなった(144氏の言うようにその回だけ意識したのなら別だが)。

とはいえ、『BSマンガ夜話』はライブの放談番組なので、その辺は面白ければいいという気もする。
そういう点に着目することによって何かが語れるということ、もしくはそういう点に着目するということ自体、普段批評的なものの見方をしていない一般視聴者にとっては新鮮であり、翌日からのマンガを新しい読み方で読めるようになる。リテラシーレベルが上がるのである。
岡田斗司夫の『オタク学入門ISBN:4102900195 http://www.netcity.or.jp/OTAKU/okada/library/books/otakugaku/mokuzi.htmlは、そういう意味で胡散臭い記述も多いが、作品を見るリテラシーの経験値稼ぎにはもってこいの良書である。私も昔これで目から鱗が少し落ちた。
作者の演出意図を読むのは、批評眼を養うにはいい。だがそれだけ読んだり書いたりしていても、批評にはならない。『オタク学入門』はいい教科書だが、それ自体は言及されている作品の批評ではない。そういうことだ。

*1:本来、例として使うならばちゃんと確認すべきなのだが、ここは日々思ったことをその場で書き留める場だと規定しているので、その無責任さは承知しつつ未確認のまま論を進めさせていただく。

literacy

遅くなりましたがfs_gohhoさんとのやりとりの続き。
id:fs_gohho:20040306#1078574014

■ [文章] 遅くなってすいません 20:53
ヤバイほど長文になったけど纏めきれなかったので、とりあえず僕も気になったことをひとつだけ。
id:AYSさんhttp://d.hatena.ne.jp/AYS/20040303#p1より

上で引用したfs_gohhoさんの「物陰から意味深な沈黙で探偵を眺める人物には、「もしかしたら犯人かも」コードという作者の意図」というのは、つまり露骨な伏線あるいはミスディレクションの例ですよね。
たしかに何らかの意図を持っての表現であることは明らかです。
「(テーマやメッセージを読み解くといったレベルではなく)そのレベルのケースでいえば、問題はないかと思うのですが」というのはたしかに。おっしゃるように、「そのレベル」というのは、それ自身は批評として低いレベルというか、瑣末なことですよね。
それがもっと大きなことを語るうえでの材料のひとつとなるならばよいが、それ自体をテーマとするのはたいていたいしたことじゃない。

作者・読者間の手続きレベル(と表現するのがベストっぽいと思いついた)だけを話題にしても、「たいしたことじゃない」なんてことはなく、けっこう楽しめると思うのです。

うーむ、やはり。書くときに「こう書くとこの点をツッコまれるかなあ」と思ったとこをツッコまれてしまいました。
たぶんfs_gohhoさんのお考えとそう違ってないのではないかと思うのですが、私が言いたいのは、「作者の意図を読む」というのを批評のゴールにしちゃうとつまんない(言い換えるとたいしたことない結論しか出ない)、ということです。*1
作者の表現意図を見抜いた上で、「だから何」ということを言わねばならない。もうひとひねりが必要。意図を見抜くだけだと、「作者、上手いね」「うん。上手い」で終わってしまうことが多い(それが言いたいだけならいいけど)。
あるいは、作者の意図を見抜きまくっていっぱい並べるという手法もありますが。
「あのシーンであの俳優がチラっと映るのは、あの人が犯人なんじゃないかと観客に思わせるための演出だよね」
「そうだね」
「あ、俺気づかなかった」
で、終わっちゃう。気づいた人=合格 気づかなかった人=もうすこしがんばりましょう というだけの話なる。
その要素をもってその作品を批評的に語るには、その「気づき」を材料にもう一段階段を上らないといけない。

「作者の意図」のみを追及することは、「作者についての批評」を書くことにしかならない。「作品についての批評」を書きたいなら、作者の意図の追及だけでは不十分ではなかろうか。

(次の日付に続く)

*1:だったと思うんですが日が経ったのでいまいち自信がなかったりも