サントリー学芸賞・イズ・デッド! 竹内一郎『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』が受賞〜その2

竹熊健太郎さんも紹介していますが、究極の戦後マンガ史図鑑現代漫画博物館』が出たそうです。

現代漫画博物館

現代漫画博物館

たけくまメモ : 「現代漫画博物館」が出ました
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_9788.html

監修は、竹内オサム氏、先日急逝された米澤嘉博氏、ヤマダトモコ氏だそうです。
出るなら出るって言っておいてくれれば……。どうやって年末の予算に計上しよう。


さて、9日付け(id:AYS:20061109)で書いた、
第28回サントリー学芸賞に、竹内一郎氏の『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』が、伊藤剛氏の『テヅカ・イズ・デッド』をおさえて選ばれてしまった、という話の続きです。

手塚治虫=ストーリーマンガの起源 (講談社選書メチエ)

手塚治虫=ストーリーマンガの起源 (講談社選書メチエ)

以下の内容は、当初9日付け(id:AYS:20061109)分の追記として書かれました。
この問題については、やはり注目度は高いようで、9日のエントリには現在27のはてなブックマークをいただいております。(ありがとうございます)

ただ、よく考えたら「1度見た人は2度同じエントリを見ない」ということに気づいたので、今回、追加分を新エントリとして独立させました。



ところで、ググったら、『人は見た目が9割』に関するインタビューを発掘。
インタビュー・この人がすごい! 『人は見た目が9割』大ヒットは偶然ではない!? 竹内一郎
http://www.timebooktown.jp/Service/clubs/00000000/interview_06_01.asp
竹内氏は、こういう見た目の人なんですね。




さて、今回の授賞に関して。
漫画評論家永山薫も反応されました。(以下、抜粋)

9月11日に生まれて [事件]なんてぇこった!
http://d.hatena.ne.jp/pecorin911/20061110/1163162678

 上記は三浦さんの講評からの引用ですが、これを読んでまず
「これでは漫画批評の草分け的存在である先輩方も浮かばれまい」
 と思いました。
 石子順造さんも呉智英さんも村上知彦さんも高取英さんも、三浦さんにかかっては
「自由民権の闘士が浮世絵を論じているようなもの」
 と一刀両断ですからね。
 いやはや、無礼者のオレですら、先人には一定の敬意は払いますよ。もちろん批判すべきは批判し、評価すべきは評価します。少なくとも、こんなありえなさそうな「たとえ」を用いて茶化すようなマネはしません。

なにしろ三浦さんは、最近の漫画批評の収穫については最初から「眼中にない」ようなのですから。
 うわあ、大塚英志伊藤剛もいないことになっている。大塚さんはサントリー学芸賞を受賞してんのに無視ですか。ここまで来ると、なんかこう色んな意味で背筋が寒くなってきたよ。大丈夫ですか、ホントに?


エロマンガ・スタディーズ―「快楽装置」としての漫画入門

エロマンガ・スタディーズ―「快楽装置」としての漫画入門

永山薫氏は、最近『エロマンガ・スタディーズ〜「快楽装置」としての漫画入門』を出され、同書はマンガ研究者・評論家の間で高く評価されているようです。





石ノ森章太郎氏・赤塚不二夫氏などとも親交が深かった、トキワ荘のマンガ家たちをよく知るマンガ家長谷邦夫(大垣女子短期大学ほか講師)も、竹内本刊行時に以下のようにコメント。

長谷邦夫の日記 - 専門学校の今期最終授業
http://d.hatena.ne.jp/nagatani/20060214

購入。帰宅すると『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』(竹内一郎講談社)がアマゾンから到着していた。

少し読んでみましたが、とても帯コピーにある「本格漫画評論」とは言いがたい雑論」のようです。
すべて、今までどこかで読んだデータ的・回顧的な<話題>のツギハギで語られています。

そのくせに新しいマンガ表現論が語ってきた考え方に目が届いていません。

手塚治虫楽天・一平ら以降のあらゆる有力マンガ家に、幼年時代から影響を受け
ストーリーマンガの創始者になった!〜という、実に珍妙な説明に終始しているように見えます。

もっと読み進めれば、少しは整理されるかも知れませんが…、日本のマンガ「研究」の進化を無視したかたちに近い論法が目立ちます。

まあ床屋政談と思えば、それでいいのかも知れませんが、ちょっと雑過ぎます。
予想通り損した。(笑)

講談社選書メチエのレベルまでが心配。やはり編集者がダメ、ってことなんですよ。
作者はマンガ原作者もやってるから、良くマンガを知ってるだろう〜くらいの認識でお願いしたんだろうなぁ。

賞の選考者は、どういう認識で決定したんでしょうか。
漫画に愛を叫んだ男たち トキワ荘物語 赤塚不二夫 天才ニャロメ伝 ニッポン名作漫画名鑑―名作漫画194本いっき読み!!




ゲームセンターあらし』で一時代を築いた、マンガ家・小説家のすがやみつる菅谷充)氏も、刊行時に書かれていました。
すがやみつるHomepage Diary (06/02c)
http://www.m-sugaya.com/nikki/nik0602c.htm

手塚治虫=ストーリーマンガの起源』(竹内一郎講談社選書メチエ/2006年2月刊/1,680円)
映画の技法に手塚マンガの技法を当てはめているけれど、手塚先生は、どこまで自覚的に映画をイメージしていたのだろう。この本で解説されている映画の技法との関連は、なんだかこじつけくさい。後出しジャンケンのように見えてしまうのは、(引用者注:すがや氏が)やはりコリコリとペンで斜線を引き、スクリーントーンを貼ってマンガを描いていた経験があるからかもしれない。

人は見た目が9割』(竹内一郎新潮新書/2005年10月刊/714円)........こちらの本でも、マンガについて触れられているが、どうもピンと来なかった。この本、ベストセラーになったのは、タイトルの勝利だと思う。

ゲームセンターあらし (1) 碧雲の艦隊(3) ダブル大和、真珠湾突撃す (ジョイ・ノベルス) 旭日のGP〈上〉 (歴史群像新書)電脳文章作法 (小学館文庫)

↑上の2氏の日記、今年の2月に書かれた文章ですよ。

どうやら、サントリー学芸賞あんな選評を書いてしまった三浦雅士氏は、とりあえず「手塚治虫=ストーリーマンガの起源」でググってみるというアイデアが思い浮かばなかったようですね。それが悲劇の始まりでした。




前回のエントリで、刊行当時のコメントを引用させていただいた、白拍子なんとなく夜話さんが、改めてナイスなツッコミをなさっています。

白拍子なんとなく夜話 - 探そう! 「手塚治虫=ストーリーマンガの起源」突っこみ十選
http://d.hatena.ne.jp/y-shirabyoushi/20061111

手塚治虫=ストーリーマンガの起源」突っ込みいろいろ(みんなも図書館でこの本を借りて探してみよう!)
・「結局、筆で描いているうちは、純粋美術の挫折者が漫画で食べているという構図なのである。」一平や楽天の遺族・関係者はこいつ殴っていいぞ。あと安彦良和御大もこいつ殴れ。

・「『映画監督術』が日本で発売されたのは、一九九六年のことである。それまでは、同書ほど懇切な映画技法の入門書は、日本になかった。」映画関係者の方々もこいつ絞めてくれ。

・「二〇代、三〇代で評価を得た小説家が、四〇代でこれほどまで作風を変えられるだろうか。私は手塚を、とてつもなく巨きな人だったのだな、と思う。」個人的な感想が評論って、ちょwwwwwおまwwwww

・「だが、劇作家の多くは物語が作れない。端的にいって右脳タイプなのである。」劇作家も怒れ。

・「ところが手塚は、左脳タイプの作家である。」もう血液型占いでもしてろよ。

さすがに右脳タイプ、左脳タイプとか言っちゃうのはなあ。疑似科学じゃん。


上で指摘されている、「ほとんど全ページにツッコミどころがある」「単なる著者の主観によって論じられている」という特徴は、あの「ゲーム脳脳」という言葉を生み出したトンデモ本、名著『ゲーム脳の恐怖』と似てますね。

ゲーム脳の恐怖 (生活人新書)

ゲーム脳の恐怖 (生活人新書)

まあ、こちらは惜しくも、2003年度第12回日本トンデモ本大賞次点でしたが。



前回、夏目房之介氏のブログでのコメントを紹介しましたが、他にも「BSマンガ夜話」とかを見ている人なら普通に名前を知っている、ビッグネームの方々が、今回の授賞に呆れています。(しかし主にmixi内で発言されているので、紹介できないのが残念)



その他のネット上での反応:
ad-lib-comic-log: 忘れられた80年代少女まんがの展望へ向けて
http://comiclab.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/80_08b3.html

「サントリー学芸賞」の過去の受賞作品

ちなみに、過去はどんな本が受賞していたのかとはてなキーワードサントリー学芸賞」の過去の受賞作品リストをざっと見てみました。
マンガ・アニメ系の受賞は以下のふたつですね。

宮崎駿の“世界” (ちくま新書)

宮崎駿の“世界” (ちくま新書)

戦後まんがの表現空間―記号的身体の呪縛

戦後まんがの表現空間―記号的身体の呪縛

ついでに、本ブログ的興味からざっと抜粋すると、こんな本が並んでますね。

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

デザインのデザイン

デザインのデザイン

遊びの現象学 アメリカン・ナルシス―メルヴィルからミルハウザーまで (アメリカ太平洋研究叢書) 映画史への招待 からだの見方 (ちくま文庫) 「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤 (講談社現代新書) 海の都の物語―ヴェネツィア共和国の一千年〈上〉 (塩野七生ルネサンス著作集) 海の都の物語―ヴェネツィア共和国の一千年〈下〉 (塩野七生ルネサンス著作集)
建築探偵の冒険〈東京篇〉 (ちくま文庫)

建築探偵の冒険〈東京篇〉 (ちくま文庫)

阿部謹也著作集〈3〉中世を旅する人びと

阿部謹也著作集〈3〉中世を旅する人びと

サントリー学芸賞・イズ・デッド! 竹内一郎『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』が受賞

いろんな意味で、痛いニュースです。
すでにいろいろなマンガ評論系ブログで騒がれていますが、まだ知らない方も多いと思いますので、ここでも取り上げます。

第28回サントリー学芸賞に、竹内一郎手塚治虫=ストーリーマンガの起源』が選ばれてしまいました。

手塚治虫=ストーリーマンガの起源 (講談社選書メチエ)

手塚治虫=ストーリーマンガの起源 (講談社選書メチエ)

第28回 サントリー学芸賞の決定
http://www.suntory.co.jp/news/2006/9630.html
サントリー学芸賞に7氏
http://www.asahi.com/culture/update/1108/019.html


マンガ研究者・評論家の間では、今年マンガ研究書が選ばれるなら、伊藤剛氏の『テヅカ・イズ・デッド』で決まりだろう、といわれていたのです。2006年のマンガ研究・評論界は、(少なくとも単行本に関しては)『テヅカ・イズ・デッド』の話題一色でした。

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

(↑未読ならぜひ読みましょう)

それを、大穴中の大穴の竹内本が受賞。え、えーっ?



手塚治虫=ストーリーマンガの起源ではないことは、近年のマンガ研究・評論本をちょっとでも読めば、そこかしこに書いてあります。
手塚治虫は、偉大すぎたがゆえに、神様扱いされ、なんでも手塚の手柄になっていたのです。近年、それは研究者たちの地道な研究で、否定されてきています。(それでもなお、手塚治虫が偉大なことに変わりはない、というところが手塚の真の偉大さでもあるわけですが)

ちょうど1年前にも、NHK教育テレビNHK知るを楽しむ 私のこだわり人物伝」で、立川談志十年一日のごとく、近年否定されている、旧態依然の手塚神話をそのまま紹介して、鼻で笑われたことがありました。
http://www.nhk.or.jp/shiruraku/200510/tuesday.html

テヅカ・イズ・デッド』は、そんな古い手塚神話を改めて否定し、手塚を乗り越える新たな枠組みを提示し、新しいマンガ研究・マンガ評論のスタンダードを創りあげたのでした。

竹熊健太郎さんは、次のように評しています。

たけくまメモ : 伊藤剛テヅカ・イズ・デッド』を読む(1)
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/09/post_8459.html

本書(引用者注:『テヅカ・イズ・デッド』)の第一の目的は、戦後の「マンガ史」や「マンガ語り」を無意識的に支配していた「起源=神様としての手塚治虫」という呪縛を、主にマンガ表現論の手法を駆使して解くことにある。同時にこれは「(手塚中心史観を離れた)ありのままのマンガ観」がどこまで語れるか? という本でもある。このありのままのマンガ観、本書のサブタイトルに倣えば「ひらかれたマンガ表現論」には、当然手塚マンガそのものも含まれる。その意味で、手塚マンガや手塚本人を貶めるものでは決してない。

また、「ユリイカ」2006年1月号の、「マンガ批評の最前線」とは、要するに『テヅカ・イズ・デッド』のことでした。

ユリイカ2006年1月号 特集=マンガ批評の最前線

ユリイカ2006年1月号 特集=マンガ批評の最前線


でもって、旧来の「手塚=神様」路線を推進し、手塚治虫=ストーリーマンガの起源」なんてカビのはえた神話を、あえてタイトルにするとは、さすが『人は見た目が9割』の著者の竹内一郎先生。「本はタイトルが10割」なのですね。勉強になりました。

人は見た目が9割 (新潮新書)

人は見た目が9割 (新潮新書)

手塚治虫=ストーリーマンガの起源』のオビに、「日本初の本格漫画評論!」とデカデカと書いてあったり、本文に

「私には、マンガ研究家によるマンガ論が物足りなかった。マンガしか知らない人が多いのである。学際的教養が感じられない。加えて、マンガ制作の現場を知らない。マンガ家やマンガ編集者など、現場の人間から見ると、見当外れのマンガ評論がたくさんある」(p.8)
「週刊誌のコラムは書けても、作家論、技法にも論及されたマンガ表現論(文芸評論では『文体論』にあたる)を包括的に論じる力を持った人がほとんどいないのである」(p.8)
紙屋研究所 竹内一郎手塚治虫=ストーリーマンガの起源
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/storymanga.html に詳しいです)

などと書いてあるのも、実にほほえましいですが、まあいいでしょう。

たとえ、
白拍子なんとなく夜話 - 竹内一郎手塚治虫=ストーリーマンガの起源」感想
http://d.hatena.ne.jp/y-shirabyoushi/20060309

 いくつかのサイトで呆れられている竹内一郎手塚治虫=ストーリーマンガの起源」という漫画評論本をこのあいだ読んだんだけど、これはバカにされるのも納得の内容だわ。ていうか評論じゃないし、これ。読んでない人にわかりやすく説明すると、この本は、手塚教のプロパガンダみたいで、手塚治虫の言葉を拠り所に自説を展開するという愚考を愚と気付かずにやっちゃっている正真正銘の電波本である。

↑こんなふうに世の中で評価されようとも、竹内先生がどんな本を出そうが、何を言おうが、言論の自由(出版の自由)は日本国憲法で保障されているので、かまわないわけです。


問題は、今回そんな本にそれなりの権威がある(と思われている)賞が与えられてしまったことです。

第28回 サントリー学芸賞 選評
http://www.suntory.co.jp/news/2006/9630-2.html#takeuchi

かくしてこの半世紀、日本の文化はストーリーマンガによって益するところきわめて大であったのだが、にもかかわらずマンガ評論はまことに乏しい。あっても、安保世代、全共闘世代というような意識でマンガを論じるものばかりだった。自由民権の闘士が浮世絵を論じているようなものだ。事態は、海外に流出することによってはじめて浮世絵の価値に気づいた明治時代にどこか似ているのである。
竹内一郎氏の『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』は、その渇きを一挙に癒してくれる快著である。
その功績の第一は、マンガ評論の基軸を提示したことである。それも二つの意味で提示している。なぜ手塚治虫がマンガ評論の原点になるかといえば、岡本一平田川水泡北澤楽天宮尾しげをといった戦前マンガの担い手の業績がすべて一度は手塚治虫へと流れ込み、その手塚治虫から戦後マンガ、現代のストーリーマンガの担い手たちが登場したと考えることが、おおよそできるからである。いささか強引にいえば、手塚治虫は砂時計の首の位置にあるわけだ。これによって、歴史的俯瞰がきわめて容易になった。
もうひとつは、マンガの絵の分析、コマ割りの分析において、手塚治虫の実験、工夫は、それがきわめて広範かつ大胆に行なわれているために、他を論ずる場合のひとつの規範になりうるからだ。竹内氏は、手塚治虫をひとつのモデルにして、文学でいえば文体論にあたるものが、マンガにおいていかにして可能であるかを示している。
功績の第二は、手塚治虫論そのものとして秀逸であること。手塚治虫が何をしたのか、どこが偉かったのか、まことによく腑に落ちる。説明はきわめて論理的で、たとえば手塚治虫がいかに巧みに映画の手法を取り入れたかの説明など、まさに水際立っている。
そして、これを功績の第三とすべきと思うのだが、手塚治虫以後については意図的に語っていないために、この方法で、松本零士萩尾望都など、手塚治虫以後のマンガ家を論じる評論家が登場することを強く促していることである。
最後に、第四の功績としてサントリー学芸賞を受賞したこと。サントリー学芸賞の幅がまたひとつ広がったことを心から喜びたい。
三浦 雅士(文芸評論家)評

アイタタタ。
「第四の功績としてサントリー学芸賞を受賞したこと」って、それが一番やばいんやん、三浦サン。
このトンマな選評をしてしまった三浦雅士氏への批判も沸き起こっておりますが、芸術・文学部門の選考委員は、 「大岡信(詩人)、大笹吉雄大阪芸術大学教授)、高階秀爾東京大学名誉教授)、芳賀徹京都造形芸術大学学長)、三浦雅士(文芸評論家)、渡辺裕(東京大学教授)」ということなので、この人たちの責任でもあるし、こういう人たちに選ばせてるというサントリー文化財団の責任もあるでしょう。



識者の反応を抜粋します。

手塚治虫=ストーリーマンガの起源サントリー学芸賞! - 夏目房之介の「で?」 [ITmedia オルタナティブ・ブログ]
http://blogs.itmedia.co.jp/natsume/2006/11/post_fa96.html

驚いたなぁ。サントリー学芸賞って、そんなレベルだったんだ。しかも伊藤剛『テヅカ イズ デッド』(NTT出版)をおさえてってことでしょ。しょうもな。

『手塚〜起源』は、もう笑うしかないじゃん。ほとんどページごとに突っ込みどころがある本じゃん。いやはや。宮本氏ならずとも「コラコラ」っていいたくなるよなぁ。

夏目房之介氏にここまで言われる本っていったい……。ちびまる子ちゃん風に)



宮本大人氏(北九州市立大学助教授)も次のように評しています。
宮本大人のミヤモメモ サントリー学芸賞はその歴史に大きな汚点を残した
http://d.hatena.ne.jp/hrhtm1970/20061109

三浦氏のこの議論自体、養老孟司氏が何度も、そして実はさらにさかのぼって『現代マンガの全体像』(1986年)で呉智英氏が、述べていることの劣化したコピーに過ぎません。

 そして、いずれにしても、このように安易に、東洋・日本の文字文化とストーリーマンガの隆盛を関連付ける議論に対する適切な批判は、すでに夏目房之介氏によって、何度も繰り返されているのですが、「漫棚通信」で批判されているように、竹内一郎氏もまた、「東洋には墨絵の伝統があった」などと、唖然とするような安易極まる文化論への落とし込みを行なっています。

 こうして、「夏目房之介以前」と言うほかないレベルの著作が、マンガ論の蓄積など大したことはないだろうと思い込んだ(としか思えない)選者たちによって、人文社会科学の世界でかなり大きなプレゼンスを持つこの賞を与えられることになってしまったわけです。

私を含む、大学でマンガ研究をしている人間たちがもっとしっかりしていれば、そしてせめて私レベルの研究者が、あと数十人いてくれれば、こんなことは起こりようがなかったわけです。残念です。そして、悔しいです。このことを、自分自身の問題として重く受け止めたいと思います。

ちなみに、『テヅカ・イズ・デッド』の伊藤剛氏は、竹内本の刊行直後に、以下のようなコメントは残しているものの、現在のところブログ上ではこの件に関してコメントしていません。
伊藤剛のトカトントニズム - 買ってきました、竹内一郎手塚治虫=ストーリーマンガの起源
http://d.hatena.ne.jp/./goito-mineral/20060216/1140094007

その他の反応:
漫棚通信ブログ版: サントリー学芸賞
http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_7e72.html
恍惚都市 - 第28回サントリー学芸賞
http://d.hatena.ne.jp/komogawa/20061109/1163040971
無言の日記−五月の庭 サントリー学芸賞を旧世代的な竹内一郎手塚治虫=ストーリーマンガの起源』が受賞してしまったことの意味
http://d.hatena.ne.jp/lepantoh/20061109

今頃麻生太郎さんも『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』読んでるのかなあ。
「アニメ大使」「マンガ大賞」創設…麻生外相の諮問機関が報告書
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/26895/
竹内一郎氏が何かの委員になったりしそうで怖い。


この問題の話、このエントリに続きます→id:AYS:20061112

『萌えるアメリカ〜米国人はいかにしてMANGAを読むようになったか』

先週行われた、米国で日本のマンガを出版してきた、堀淵清治さんの
『萌えるアメリカ〜米国人はいかにしてMANGAを読むようになったか』

萌えるアメリカ 米国人はいかにしてMANGAを読むようになったか

萌えるアメリカ 米国人はいかにしてMANGAを読むようになったか

の講演会http://www.aoyamabc.co.jp/events200610.html#ao20061024_1に行ってきたのですが、この模様も、めでたく毎日で記事になりました。


ちなみにこの本、伊藤剛さんの『テヅカ・イズ・デッド』、東浩紀さんの『動物化するポストモダン』、本田透さんの『萌える男』などとは違って、「萌え」分析の本ではありません。
本文には、「萌え」という表現は(たぶん)まったく出てきません。
堀淵さんご本人がこの方がウケると思って名づけたそうです。さすがビジネスマン。


でも、この本、米国の出版制度がよくわかって大変面白いです。
講演でも聞き手として登壇した賀川洋氏(洋版社長)の著書『出版再生−アメリカの出版ビジネスから何が見えるか』(文化通信社)も、同じく参考になります。

出版再生 ― アメリカの出版ビジネスから何が見えるか

出版再生 ― アメリカの出版ビジネスから何が見えるか



講演では、聴衆のほとんどがスーツを来たビジネスマンで、翻訳ビジネス関係者が多かったです。萌えに詳しそうな、秋葉系は迷い込んでいませんでした。
また、会場には、著名な評論家の夏目房之介さん・藤本由香里さんもいらしていて、夏目さんはブログで詳しい感想を書かれています。


なお、夏目さんも『マンガ 世界戦略―カモネギ化するマンガ産業』で海外マンガ事情を論じていらっしゃいます。

マンガ 世界戦略―カモネギ化するマンガ産業

マンガ 世界戦略―カモネギ化するマンガ産業

他に、アメリカのオタク事情の本といえば:

オタク・イン・USA 愛と誤解のAnime輸入史

オタク・イン・USA 愛と誤解のAnime輸入史

参考までに、上に挙げた「萌え」の議論に興味がある人用図書↓

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

,
動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

,
萌える男 (ちくま新書)

萌える男 (ちくま新書)

ガラスのピラミッド

そういえば年末に『ダ・ヴィンチ・コード』を読んだのだった。
10〜11月にヨーロッパに行ったとき、どこの空港にもこのペーパーバックが平積みになってて、そのブームっぷりに驚いたものだ。

旅行では、ルーブルやミラノの『最後の晩餐』を見たりするのを楽しみにしていて、この小説も出発前に読んでおきたかったが、忙しかったので時間がなく、帰国後に読んだのだった。

2004年は個人的に割と大変な年だった。小説をまともに読むこと自体久しぶりだったのだが、大変面白くて、一気に読めた。
上巻は。

下巻はちょっと面白さが失速していったのだが、まあまあだった。

内容は、キリスト教圏でよく広く読まれてるなあと思うほど、キリスト教の信仰に対して挑戦的。(だから広く読まれているのか?)

話としては 警察とかに追われて逃げる主人公たち→図像学を中心としたウンチクを語る→ウンチクを語ってる間に包囲される→逃げる というのの繰り返しのストーリー。
ルーブル美術館館長変死の謎を解く」という話を聞いていたので、そういう推理小説なのかと思ったらぜんぜん違った。

だが、この「逃げる・ウンチク・また逃げる」という繰り返しのスピード感が、ページをめくる手を早めてくれるのも事実。

このウンチクがけっこう面白い。(デタラメも多いらしいのであまり真に受けないほうがよいが)
また、アナグラムとか言葉遊び的とんちネタによる、暗号解読ネタが多い。
これがほどよくヌルくて、登場人物より先に謎が解けたりするので、ちょっとした優越感に浸れるのだった。

強引なネタも多いけどね。ネタバレになるといかんので日本っぽく翻訳すると、
「鳥居の形は「井」という字に似ているだろう? これは元々、鳥居は天井を意味したということなんだよ。つまり、ここに書いてある天井とは、鳥居のことなのさ」
「つまり、勾玉は鳥居の上にあるというわけ?」
「その通り」
みたいな感じ。(もちろんこのウンチクはウソです)

つまり、『ダ・ヴィンチ(=ウンチク)・コード(=言葉遊びパズル)』というわけなのだ。
テレビでは昨年は『トリビア』、最近はなぞなぞ・知能テスト的な番組が流行ってるみたいなので、世界的にこういうのがウケるのかも。

キリスト教ネタは、大学でキリスト教学をかじったこともあるので、読んでてかなり無理があるなあと思った。
聖書の記述を否定するのに聖書の記述を根拠にしてたりする感じで、やっぱしキリスト教世界で育った人が人が書いてるんだなあと思ったり。

言葉遊びは面白いが、説得力というか真実味はあんまりない。
だいたい、ダ・ヴィンチの時代はそう呼ばれてなかっただろ、という初歩的なツッコミを誰もが入れるだろう。

というのはともかく、この本のおかげで久々に小説とかいろいろ読みたくなったので、最近はちょこちょこと読み始めているのだった。

hand in hand

宮部みゆきICO』読了。
後半、ネタバレを書くので、本来末尾に書くことを先に書くが、ゲームの再ベスト版は8月に1800円で出るらしい。遅いよ。というか、ベスト版を売り切るつもりなのか? でも店頭にあんましないと思うけど。SCE、あんまり気が利いてません。
さて、小説版だが、なかなか面白かった。ミヤベ先生の作品を初めて読んだのだが、やはり推理小説家なのだなあ。序盤で伏線を張り(多くはイコの幻視による)、後半で謎解きをしてみせる。
プロローグなど、ゲームに描かれていない部分の記述も当然多いが、ゲームで描かれている部分も、けっこう変更されている。
これは読む前からそうなんだろうな、と思っていたところなので、「俺の『ICO』と違う!」というようには思わない。むしろ、ゲームの補完版ではなく、あくまでゲームとは別物の『ICO』という性格が明確になってよいと思う。
▼以下、ゲームのネタバレ、小説版のややバレ
小説では、中盤ぐらいからヨルダはイコの言葉がわかるようになる。ただし、最後まで、イコはヨルダの言葉がわからない。この差は割と大きい気がする。
ただし、私はあえて、ヨルダの台詞に日本語字幕がつくようになるゲームの2周目をやっていない。2回もやるのが面倒くさいというのもあるが、おねえちゃんはぼくにはわからない言葉を話すから神聖かつ神秘なのであり、言葉がわかってしまうと興ざめしてしまう部分があるのではないかと思うからである。だから、小説のヨルダの台詞が、ゲームでの台詞とどこまで同じなのかよくわからない。その意味で厳密な比較はできない。
もちろん、小説版は、ゲームでの私の解釈と違いが多々あった。たとえば、イコの角は私は呪われし者の象徴であり、だからこそエンディングでは折れているのだと解釈した。だが、小説ではむしろ聖なる象徴に近い気がする。個人的には呪われた小さな者が、その知恵と勇気で何かを成し遂げる、という構図の方が好きだ。
小説では、驚くことに、「影」の正体が序盤で明かされてしまう。中盤の作劇上、やむをえないと思うのだが、私は終盤のあのシーンでめったにない驚きと戦慄を覚えたので、それがなかったのはやや残念である。その代わり、小説のそのシーンはまったく違ったものになっている。
エピローグシーンも、ゲームで見たのとかなり違った印象を受けた。ゲームではヨルダが影になり、イコを独り小船で逃がす。ヨルダを助けるために戦ってきたイコが、逆にヨルダに逃がされてしまう。しかも、白く光り輝いていたヨルダは影になってしまう。このやるせなさ。しかし、小説でのニュアンスはかなり違う。

中盤、ヨルダの一人称のストーリーになるのは、女性作家ならではというところだろうか? ゲームではおねえちゃんの言っていることがわからない、城から出たいのか出たくないのかその心がわからない、という、イコとヨルダの、プレイヤーとおねえちゃんのディスコミュニケーションが核としてあり、その上での手を繋ぐというコミュニケーションがポイントだった気がするのだ。

……等々、私の『ICO』のツボとはかなり違う。しかし小説というメディアでは、宮部の選択は正しいと思う。よい作品をありがとうございました。『ICO』次回作への追い風となるといいなあ。

As a boy, so the man.

はてなダイアラー絵本百選」を見たら、まだ1人めも書いてないのに「ふってくれリスト」に異常なほど多くの人数が。
あっという間に先行の「はてなダイアリーの一冊百選」を超えてしまうではないですか。
と、思ったら、id:nekoprotocolさん、id:yasaiさん、id:chepookaさんしかキーワード編集してない。最初にリアクションした人とかをどんどん入れたってことか。びっくりした。
私の場合、まずパッと思いついたのは『ちいさいおうち』 ISBN:4001105535、やはりすでにid:xavi6:20040322#p3さんに差し押さえられていた。
先年この絵本をふたたび目にして、『シムシティー』をやったときの既視感はこれだったんだ! と思ったものです。*1

*1:バンゲリングベイ』に由来する既視感もあるけどそれはまた別